(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

結論ありきの材料集め

よく街角で意見求める映像あるじゃねえすか。「今回の柳沢発言。どう思います?」ってヤツ。あれ、実情は半分捏造に近いんだよね。どこの局でも。というのも、映像を集めるにあたって「どういう回答が必要か」ってのは決まってるわけですよ。「柳沢バッシングを集めてこい」みたいな指示が出るわけでね。
で、意見を集めた結果、非難と同情が半々だったとする。その場合、同情意見は全面カット。当然使わない。また、仮に3:7で同情が多くてもカット。同情が多かろうが何だろうが、映像を使う意図が決まっている以上は、その意図に反する映像は使わない。テレビ局に編集権がある以上、こんなことは自由自在でして、ええ。マスコミが演出する世論ってこんなもんです。
とはいえ、何かを主張したい場合、こういうプロセスが必要なんですよ。何かを言うには、それが正しいという証拠をセットにしなきゃならん。「○○が悪い」と言うためには、悪い証拠を集めなきゃならん。それが転じると「主張を言うための証拠が必要だ」ということになるってわけです。結論ありきの材料集めね。
ところが、こういう材料集めをすると、結論とかみ合わないことがあるわけですよ。「あれあれ、現実は違う」と。で、学問なんかではそれでもいいわけね。例えば昔は重さが違う物を同時に落とした場合、重い物が先に落ちると思われてたんだけど、ガリレオのオッサンが「じゃ、実際にやってみよっか」というわけでピサの斜塔で実験したわけね(実際には実験してない説もあるけど)。その結果、重さが違っても同時に落ちるということがわかった。「じゃ、今までのは間違いってことで。チャンチャン」なんだけど、これも学問の進歩。ひとつの新発見なわけです。ある結論が正しいという発見と、ある結論が間違っているという発見は、ある意味で同じくらい価値があるわけ。常識の転換点になるから。
ところがところが、こりゃマスコミの現場じゃまずい。「もう見出しうっちゃったよ」「ラテ欄変えられないぞ」「もう宣伝しちゃったしなあ」ということになる。「実際は違いました」って発表できればいいんだけど、話の展開上、正しい結論を流せないことがある。こういう本質部分の捏造ってのは毎日・毎時間至るところで行われているわけですよ。「思ったより柳沢発言はOKだなあ」「でも柳沢潰しで行け!」的な。誰でもしとるだろ。効果的なものは猛烈アピール。都合の悪いものは隠すもんですよ。
だからこそ「リテラシー」なのね。「何が本当か自分で考えや」なのよ。で、他人が言うことは多かれ少なかれ、こういう意図が隠されているから疑ってかかりましょうと。特に権威は疑いましょう。権威というだけで信用しやすいから、余計に疑ってかかるくらいで丁度良し。「良い」と言われたら「悪いかも」、「少ない」と言われたら「多いかも」って逆に考えてみるクセをつけるといいですよ。ひとつの見方にかたまっちゃいけません。視点のバランスをとりませう。