(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

「男らしく・女らしく」から「自分らしく」

こういう記事を見ると、感覚の古さというか、狭量というか、固定観念の弊害とかを感じて仕方ないですな。性差を超えたエンタメ人気に関する記事。

結局のところ、こういう性差を超えた現象が出てきたのは、社会の成熟以外の何者でもないんですよね。モラルの問題でも、社会秩序の問題でもねえんですよ。そこまで大げさな話じゃなくて、単にそういうのが許される世の中になった。それだけの話なんですよ。
ちょっと昔、昭和中期くらいまでは、一族での共同生活という風景が普通にあったわけですよ。複数の世帯が寄り添い、その中で生活していた。そういう環境の中では、ある者は一族の長という役割を負い、ある者は母という役割を務めなくてはいけなかった。集団生活という前提があり、各役割の必要性もそれに伴う形で必要であったと。家長は全てを仕切り、周りはそれに従うと。そういう仕組みが秩序をつくっていた。それが集団生活の知恵だったわけですね。性差もそれに伴う形で存在していた。
それが核家族の時代になった。豊かになり、世帯単独で生きていける世の中になった。こうなると役割は「父・母・子」しかなくなるので、上下関係なんかの秩序だった関係は必要ねえわけですよ。夫婦は対等でも問題ないし、せいぜい、子に対して上であればいい。大家族の時代よりは性差は小さくなった。
そして今や個人の時代。男だろうが女だろうが、年はいくつだろうが、1人で生きることができる時代。こんな時代に性差なんて考えてもしょうがないわけですよ。男でも女でも、ほとんどのことが可能になっているわけで。「男じゃなきゃ」「女でないと」というものがない以上、性差はなくなって当たり前。
ネット社会はその落とし子のひとつ。ネットとかのデジタルに性差はねえですよね。文章も画像も動画も、その属性よりも内容が問われる。「誰が」作ったかではなく、「何を」作ったかどうかの方が遥かに重要。「女心をつかむ男の書いた小説」や「男に受ける女が描くマンガ」が成立するのは、「誰が」という属性主義から、「何を」の実質主義に変わったってことなんですよ。これはデジタル化の功じゃないかと思っております。
そんな社会の変遷がベースにあるわけで、未だに性差ウンヌンを言っているのは時代遅れとしか思えませんね。

 メディアの変遷などに詳しい東海大学文学部広報メディア学科の時野谷浩(ときのや・ひろし)教授は「テレビの登場以前は社会のモラルが明確だった。男は男らしく、女は女らしかった。そのけじめを壊したのがテレビ文化。社会秩序を破壊している」と批判的に見ている。

出たよ、「男は男らしく、女は女らしかった」。教授らしく実に洗練された知性溢れるお言葉に感激せざるを得ません。これはモラルじゃなくて、そういう必要性があったからなのよね。大きな集団生活での秩序と分業の必要性。だから、秩序と分業が不要になった今、そんなのは必要でねえんですよ。これは社会秩序の破壊じゃなくて、単なる変化。
男が男らしくとか、女は女らしくという以前に、現代は「自分は自分らしく」という個人の時代になった。そしてそれは個人単位で使うことができるインターネットの影響であると思うのですがね。個人単位で情報を集め、または発信できる。そういうメディアを手に入れたことで、益々性差は必要なくなり、性を超えた個人の時代になった。オレはこう思っておりますよ。
メディアの変遷を語る教授とやらが、こういう旧時代的なことを言ってるあたり、オッサンの社会観は古くてステキですな。