(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

週末ディベート狂詩曲

土曜日、無事ディベートのジャッジ任務終了。判定を下し、偉そうに講釈を垂れ、悦に入る。夜は夜でひたすら飲み、しゃべり倒し、SL広場にて舞う。その結果、日曜日は見事なポンコツ状態。酒気は残るは、体はダルいは、眠気もあるし、運動してねえのに筋肉痛もある。しかも豪快に夕方まで寝倒したためため、睡眠サイクルが狂いまくり、夜に少し気絶したものの、F1中継が始まると絶好調。その後寝れず朝になる。嗚呼、もう月曜日。10時から歯医者。……何なんだ、この3日間。
ま、しかしジャッジを無事終えられて良かった。何回もやっているとはいえ緊張するもんであります。人様に勝ち負けつけるっていうのは、責任が問われることですからなあ。ましてや、自分が教わった先生方の前で判定したり、講評せにゃならん。ジャッジもジャッジされるわけで、実は大変なのですよ。迂闊なことは言えん。
とはいえ、だからこそ貴重な経験なんですがね。人に勝ち負けつけるということは、良し悪しの基準がないとできんもの。ディベートで勝ち負けをつけるということは、ディベートの良し悪しがわかっていないとできんわけで、そういう意味の基準の有無が問われるわけですな。で、その基準を持つ必要を迫られるので、強制的にその能力が磨かれるのですよ。「必要性は能力開発の母」なんです。
人にものを教えるってのもそうですな。人に教えるってことは、教える対象を理解してないとできない。解っていることしか人に教えることはできないし、解ってないことは教えようがない。その現実に触れ、自分が意外と解ってなかったんだなあと気付くことがある。人に伝える言葉を持ってないと気付く瞬間。解ってたようで解ってねえ。それに気付くことで言葉を手に入れ、本当に理解する。結構よくあるパターン。人に教える立場なのに、実は自分が一番教えられてることってあるんだよね。

  • 「気付き→ヤバイ→考える→答えを出す」

これがオレの考える学びのプロセス。「ヤバイ」という危機感が意外と大事。危機感を感じる感覚があるなら、それに対策を打とうとする感覚もあるはず。生物としての生存本能に通じる話で、危機感こそが知的活動の礎なのかなあと思う次第。
……歯医者行きます。