(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

期待はするが、あてにはしない

情報を扱うにあたり、心がけていることがあります。

  • 期待はするが、あてにはしない

別に「情報を信用するな」みたいな大げさな話じゃねえんだけども、その情報の真偽を含め、全ては自分に跳ね返ってくる以上、その情報に依存するのはどうかと思っているわけですよ。その情報が正しいとは期待するけど、正しいという前提では動かない。あてにしないっていうのはそういうこと。情報を受け取りっぱなしで依存するのは嫌なのです。
これは自由主義的信条の裏返しでもあります。オレはとにかく放っておいて欲しい人間なのだけれど、勝手気ままに生きた結果、損することも厭わないのですよ。「損をする自由」を含めて放っておいてくれと。なので、情報の取捨選択もオレの自由なのです。得しようが、損しようがオレの勝手なのです。
その考えで行くと、そろそろ食品偽装の話は打ち止めにして欲しいのですよ。今度は吉兆。

日付がなんなのよ。食えればいいじゃん。でもって、消費期限内だからセーフとは限らんでしょ。あくまで目安。いくら消費期限内だからって、一口食べてみておかしかったら、食べるのは控えるべきだろうし、逆に消費期限過ぎていても、おかしいところがなきゃ大丈夫でしょうに。何のために五感があるかと言うと、どれかひとつだけだとわからんが、5つもあれば何かわかるべえという知恵じゃないのかね。色がおかしい。臭いがおかしい。味がおかしいという感覚こそリアルでないかなあ。それこそ本能の為せる業では。「おかしい」という感覚こそ生存本能だと思いますがね。子どもが苦いものを嫌うのは、苦いものは毒であるという本能によるという説もありますしねえ。
で、結局この話って、消費期限という目安主義の問題だと思うんだよね。消費期限は絶対。消費期限を過ぎたるものは、食品として売ることはまかりならんと。これは本質が違う。消費期限を問わず、食えねえものは売っちゃならんというのが本質。消費期限内であろうと、腐るものは腐るんですよ。目安は目安。大まかの目安として期待はできるけど、決してあてにはできんのですよ。例外はあるから。そこを判断するのが各自の感覚であり、本能じゃありませんかね。その本能の部分は依存しちゃダメでしょ。自分に跳ね返ってくるんだから。
消費期限の偽装なんて大きな話じゃない。この話が大きく報道されればされるほど、衛生コストが上がり、中小がきつくなり、大手ニッコリという図式がある。石屋製菓がなくなって、どこも明治・森永じゃつまらんでしょうよ。吉兆がなくなって、どこもなだ萬で楽しい? 何事にも罪と罰のバランスがあるわけで、著しくバランスが悪いと感じる次第。食中毒と消費期限の偽装のどっちが重大か考えりゃわかると思うんだけどな。健康に問題のない偽装はもう少し大目に見ましょうや。
(追記)
予言。次の偽装候補は「松前漬け・明太子・もみじ饅頭」のどれかでは。中でも明太子はかなり有力。明太子は色々あるからなあ。