(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

通じればいいんじゃね?

基本的に自由主義者であり、「人の価値観は人それぞれであり、それぞれの価値観はそれぞれに正しい」がモットーなので、「正しい○○」とか言われると「正しいもなにもねえよ」と思ってしまうわけですが、中でも嫌いなのが「正しい日本語」っていうヤツ。何だよ、正しい日本語って。
こういう話って「KY」とレベルが一緒だと思うわけですよ。誰かが思う「正しい日本語」と違う。だから「正しい日本語」を使えと。それだけの話。ところがそれぞれの「正しい日本語」にはブレがある。微妙にそれぞれ違うのに、その違いが考慮されてないし、相手の立場になって譲る気持ちがない。こういう感覚に馴染めないんですな。空気感も人それぞれで、オマエの思う空気感を人に押し付けんなやと。そういうことなんです。

そもそもの話、言語なんてのは単なるコミュニケーションの手段なんですよ。情報伝達の手段であり、表現の手段。相手に何かを伝えるとき、その伝える手段が言語。また、日本語は日本で使われている言語というだけであり、日本で通用するコミュニケーション手段ということ。で、手段ということは、決して目的以上のものではないんですよ。目的があっての手段なわけで。コミュニケーションが目的で、手段が言語。中でも日本で有効な手段が日本語。それだけの話。
である以上はこういうことが言える。

  • より伝わる手段が良い言語

言語は相手に何かを伝えるための手段であり方法であり道具。であるならば、より良く切れる包丁が包丁の中では良いものであるように、相手に伝えやすい方法こそが良い言語。これこそが手段と目的の関連性。である以上は、相手に伝えやすくなるように、言語自体も変わっていくこともまた普通のこと。略語とか「ら抜き言葉」とかは昔の日本語の用法と比較すりゃ間違ってるんだけど、日本語として全く問題なくコミュニケーションがとれるんなら万事OK。古い世代からみりゃ「日本語がおかしい」だけど、そういう言葉を使ってる世代からすりゃ「わかるんだからいいじゃん」。で、日本語を道具として考えれば、後者も間違ってない。無問題。伝わる方法こそが正しい。それもひとつの真理のような。「正しい日本語」って言っちゃう人は、日本語を厳格に定義付けしたがりすぎな気がしますよ。もっとゆるく考えてもいいんでは。
こういう姿勢は他の言語に対してもありますな。特に英語。妙にこだわっちゃう。「apple」の前は「an」だとか。「the」は「ザ」だけど、後につく言葉によっては「ジ」になるとか。でもぶっちゃけそんなのどっちでもいいんですよ。どう言ったって通じる。海外の人が使う日本語に自分たちがどう対応してるかを考えりゃわかるじゃないですか。「ワタシ、ホシイ、リンゴ」みたいな「単語並べただけかよ」文でも意味は通じる。「てにをは」の間違いなんて一般生活上は何の問題もないわけですよ。である以上は「a」と「an」なんかどうでもいいことだし、「ザ」と言おうが「ジ」と読もうが、そんなの大勢に影響ない。
個人的な経験上、海外では構文とか文法より、単語力ですな。単語を知らないとどうにもならん。ただ単語を知っているなら、あとはそれを並べりゃ何とかなる。そんなもんです。で、そりゃ「正しい英語」とかの考え方ではアウトなんでしょうけど、相手に意図が通じればいいんですよ。「スリーナイトOK?」で3泊できりゃいいわけで。そこで「複数形だからナイツだ」とか気にしてちゃ何もできん。正しい結果を得られれば、それは正しいコミュニケーションがとれてたというわけなんで、そこは良しとしないと。
で、こういう姿勢を見て取っても、日本では言語に対する姿勢がマジメすぎるというか。もっと手段とか道具としての割り切りというか、いい加減さがあってもいいと思うわけです。「通じりゃいいんだよ」というかね。日本でも方言があるわけで、正しい日本語なんてないんだから。標準語は正しい日本語ではなくて、標準的な日本語という日本語の平均値的なものなわけで。
以上、日頃いい加減だから、言葉までいい加減のタケルンバがお送りしました。