(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

蘇民祭では全裸が正装です

あちこちで話題になった「蘇民祭」なんだけども、こういうのは「放っておいてやれよ」と思うのですよ。ケチをつけるのは、あらゆる意味で無粋な行為だと考えております。別に江戸っ子じゃないですけどねえ、あちきは。何故そこで江戸弁。

よそ者が言うな

こういうのはよそ者がああだこうだ言うのは無粋なのですよ。その地域の伝統なのでねえ。「何故岸和田では死人が出てもだんじり祭りをやめないのか」みたいな話でしょ。その地域特有の事情があって出来たものなので、物凄く余計な話なのですな。「蘇民祭では何故全裸になるのか」と「博多どんたくでは何故ふんどし姿になるのか」は全くの等価。お互いの事情があってそうなったというわけで。であればお互いに何も言わない方がいいと思うんだよね。

今のルールを持ち込むな

ワイセツだなんざは最近の概念なわけですよ。警察ができたのも祭りの歴史から考えれば、ごくごく最近なのですよ。公然ワイセツが問題になるはるか前から裸祭りは存在するわけでねえ。それを今のルールで判断することに無理がある。ルールがない時代にできたものなので。
セクハラなんて概念もそうだよね。あんなもん最近でしょ、できたの。博多どんたくとかでもふんどし姿の女性が参加してますよ。神田明神なんかでも。でもそれは「ふんどし姿の強要」みたいなセクハラじゃねえわけです。その祭りの正式な衣装なわけで。嫌なら参加しなければいいだけのことだしね。蘇民祭はその正装が全裸というだけの話だよね。あの場では全裸がフォーマルなんですよ。

伝統に良いも悪いもねえ

基本的に伝統って良いも悪いもないのよ。伝統とはある一定の様式で長く続いているもの。で、その様式に理由はなくていいし、ないのが普通。「だんじり祭りでは何故だんじりを引くのか」と言う疑問には「そういうもんだから」としか言いようがないじゃないですか。「ねぶた祭りの掛け声は何故『ラッセーラー』なの?」「阿波踊りでは何故女性は編笠をかぶるの?」も同様。そして「蘇民祭はどうして全裸になるの?」もまったく同じ。疑問を差し挟む余地がないんですよ。そういうもんだから。そういうスタイルで続いてきちゃったもんで。それを現代の基準で良し悪しを判断するのは無粋。
極端な話、「祭りは何故祭りと呼ぶのか?」みたいな話でもあります。誰もわからない。そういうことになっている。で、それ以上でも以下でもない。良いも悪いもなくて、ただ「そういうもんだ」と。伝統というものはそういうもんじゃないですかね。あるルールのもとに続いているもの。それだけなんですよ。
しかしそういうものが「文化」なんですよね。オレの解釈だと、文化とは「本質的には意味合いがないものに意味を持たせること」です。ただ続いていることに意味を見出すと、それは文化になるのですよ。祭りなんてあってもなくても人間は生きていけるんだけども、そこに無病息災とか、五穀豊穣とかの意味を持たせる。それを地域の人は心の拠り所にする。となると、これはこれで意義が出てくる。となればこれを否定することはねえんですよ。ましてこれをそのルール外のよそ者がああだこうだ言ったり、現代のルールで判断したり、良し悪しの分別をつけようとしちゃいかんのです。そういうものを超越したものが伝統であり文化なのでねえ。
以上、どうでもいいことを楽しむことが生きがいのタケルンバがお届けしました。
(追記)2008/02/15 6:00
大体こういう伝統行事の良し悪しを、たかだか一企業が判断するのがおかしいよな。

 「ポスターは客に不快感を与えるかもしれない」

http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080108/trd0801082054012-n1.htm

JR東日本は「かもしれない運転」励行で素晴らしいですね(棒読み)。