(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

「できない」ことがわからない

いくら何でも早いような。ダエイがイラン代表監督に就任するらしい。

どうなんでしょうね。大丈夫かね。この手の偉大な選手が、引退後直行で監督になるとろくなことにならんのよね。というか、成功例があまりない。「名選手、名監督ならず」と言いますからねえ。
その最大の理由は、天才が天才であるところにある。偉大な選手が偉大になった過程に、監督に向いていない理由がある。個人的な観測から言って、天才は指導者に向いていない。指導者に向いているのは凡才。凡才の方がはるかに指導者向き。

天才には「できる」理由がない

天才はとにかく「できる」のですよ。理由もなくできる。なんとなしにできる。勝手にできる。もちろんそのための研鑽はあるし、練習に費やした日々もあるわけだけども、できるようになった理由とか過程が再現できない。そのために人に教えられない。ロジカルに習得したスキルじゃないので、再現性が無い。だから、自分以外の他者には教えられない。自己完結してしまっているのですよ。

凡才には「できる」理由がある

逆に言うとこういうこと。凡才はできない。理由がないとできない。なんとなしにはできない。勝手にはできない。できるようになるための段取りを、少しずつ身につけないとできるようにならない。ロジカルに段階を踏まないと、スキルが身につかない。
だからこそ再現性がある。できない人ができるようになる過程を身につけているので、同じようにできない人であれば、その歩みを再現することができる。これがまさに指導にうってつけ。
それに天才には最大の欠点がわる。

「できない」ことがわからない

天才はできるので、何故できないのかわからない。できない理由がわからない。何が足りなくて、何が欠けていて、そして何が必要なのか。そのパーツがわからない。天才ゆえに、凡才を理解できない。
一方、凡才は自分自身ができなかったので、何故できないのかがわかる。足りない要素もわかるし、必要なこともわかっている。そして凡才になくて、天才にあるものを理解している。凡才は凡才がわかるし、天才を理解することができる。この差が監督業とか、指導者にあたって大きく出る。
明るいところからは、暗いところに何があるか見えない。でも暗いところからは、明るいところがよく見える。そんな違いがあるように感じるわけですよ。
そんなわけでダエイタイプの選手が、監督修行を積まぬ前に監督になっちゃうのはどうなのかなあと。フィジカルでものを言わせていた選手なので、できねえ選手を理解できないと思うんだよね。「何故できないの?」と。自分ができてただけにさ。
ま、アシスタント・コーチ次第なんでしょうけどねえ。実務型を周りにそろえるといいけど。ダエイアリ・カリミが大ゲンカみたいなことにならんといいね。あちらの方はこういうケンカ起こしやすいから。以上、マハダヴィキア好きより。