(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

体罰アリ派の代表が戸塚校長というところで萎える

Skypeで友人N氏と延々話をしていたわけですが、その中で話題は体罰に。2人の意見は一致したわけですが、体罰はアリだと思うんだよね。というか、体罰ナシがありえん。どうやらこういう意見は世間ではマイノリティのようだけども、別に体罰は悪いことでも何でもねえ。あってしかるべき行為だと思うのですよ。
というのも、ガキなんて人間のできそこないだと思っとるわけです。まだ人間になる過程。英語圏ではガキを「it」と呼ぶらしいですが、確かにモノ扱いでいい。だって一人前じゃないもの。ほっときゃ悪さするし、それが悪いことすらわかってないし。自我がどうだとか、個性がどうだとか言う以前に、そもそも人間の未完成品。故にできそこない。
であるなら、そこに体罰はアリじゃねえかと。悪いことをしたら怒らなくてはならない。怒ってわからねえなら、体罰でわからせるしかない。これは致し方のないことかなあと。実際、各家庭ではこうしてるわけだし。「言ってわかんねえなら引っぱたく」のが普通。であるなら、それを学校でやるのは当たり前。自然じゃないですか。家でやってるんだもの。それを学校じゃまかりならんって、不自然じゃありませんか。家庭でやるべき体罰を、教師が代理でやってると考えたほうがよろしいのでは。
もちろん良い体罰と悪い体罰はありますよ。美しく言えばこんな感じ。

  • 良い体罰 良心に傷を残し、体に傷を残さない
  • 悪い体罰 良心に傷を残さず、体に傷を残す

体罰の目的は教育なんですよ。戒め。であるなら、本人に悪いと思わせなきゃ意味がない。その目的が達成されるなら、体罰は肯定される。とはいえケガさせちゃならねえ。引っぱたくのはいいが、引っぱたいた結果、鼓膜が破れたりするのは論外。そりゃ暴力。ケガさせないようにしなきゃいかん。
で、本来はこういうところが教師の腕のうちだと思うんだよね。ケガさせないように体罰をする。このコントロールが教師の力量。力加減とかもそうだし、この程度の悪さだとこういう罰になるという相場感覚というか。やられた方が納得する基準。これが必要。ちょっとした悪さでフルボッコじゃまずいわけ。逆にスゲエ悪さなのに口頭でマイルドな注意でも困る。それじゃ事の重大性がわからん。事の重大性がわからんからガキは悪さをするわけで、それを戒めるには相当の罰が必要。それが体罰というのは全然問題なし。
そもそも体罰が封じられると、ガキをコントロールする術はねえわけです。聞きわけがいいならガキじゃないし、そういう分別がないからガキ。適当な戒めがなきゃ付け上がるだけ。ある程度恐い思いをさせるってのは教育上必要。少なくても最後の手段としてはとっておきたい。「体罰がない」となりゃガキは足元を見る。そのためにも「もしかしたら」と思わせる余地が必要。それが体罰じゃねえですか?
そんなわけで、教師には体罰を認めるべき。保護者としてコントロールすべきは、体罰の結果。ケガさせていないか、きちんと戒めになっているか、体罰すべきケースであるか。そのコントロール体罰の有無をコントロールするのは大間違い。引っぱたくべきときはある。その場面で躊躇無く教師に引っぱたいてもらうことがガキにとっていいことじゃないですかね。そこで教師に躊躇させるような「体罰ハンターイ」風潮はどうなのか。こう2人の意見が一致したわけだ。
とはいえ、この我々のような体罰アリ派は世間で弱い。その理由として、体罰アリナシの話になると、体罰容認派の代表として戸塚校長が出てくるのが問題な気がする。あんなの単なる人殺しだからね。戒めの結果、人を殺すってのはどうにかしてる。ケガしないように、事故にならないようにコントロールするのが教育者の力量なわけで、あの人は教育者失格。そういう人が体罰アリ派の代表みたいになっているのはちょっとどうなのかね。ありゃ教育者として最低ランクだろ。体罰はアリだというところだけ正しいが、そのやり方は徹頭徹尾間違っていたわけでねえ。
程よく真っ当な体罰アリ派の論客がいないことが、我々のような体罰アリ派がマイノリティになってる理由な気がしますですよ。少なくても戸塚校長でないことは断言しておこう。ヤンキー先生でもないけどね。「お前が言うな」場面大連発。まともなこっち側の人はいないもんか。