(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

嘆いてなんかいられない

自分は凡人であるし、普通のあんちゃんだと思っております。「自分はマッチョ」だなんて口が裂けても言えませんよ、はい。ただ「自分は弱いんです」なんて卑下するつもりもないんだよね。弱くもない。これがまさに凡人の凡人たるところと言うんですかね。普通以外のナニモノでもないというか。
ただ、こういう意見には非常に共感するのですよ。わしゃ強くもなんともないけども。

そろそろお気づきだろうか。こういった「宛名のない善意」というのは、自らそれを使わなければ何も起こらないということを。たとえ自分の目と鼻の先にそれがあっても、自分で手をのばさなければそれは存在しないも同様なのだ。
しかし、手をのばせば、確かにそれはある。
それが、私を救ったものの正体である。

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そうなんだよねえ。あるんだよ、そこに。現実に。宛名のない善意は存在している。手をのばせば届く。それだけ。
オレはそれを「気付き」という感覚と考えています。気付きの材料はある。みんな同じものを見ている。あとはそこからどんな気付きを得るか。
あるものを見ても何も思わない人がいる。一方、同じものを見て何かを得る人がいる。これは気付きの差。小飼弾氏の表現で言えば「料理の存在に気付き、取りに行く」力。刺激に対する感覚の問題。
もうひとつは機会の問題。どれだけ刺激を受ける回数を増やすか。1回で気付かなくても、2回、3回とやれば気付くかもしれない。感覚と機会は気付きの質と量を決める要素。
で、刺激に対する感覚の問題。気付くかどうかに関しては個人差があるから仕方ない部分があるとして、機会の問題はいくらでもあると思うんだよね。いくらでも解決可能。少なくても本は蓄積される一方で、増えることはあっても減ることはない。図書館の蔵書数は増える一方ということは刺激も増える一方。またネットによって得られる情報も格段に増えている。ということは気付きの機会はいくらでもあるんだよね。

食べきれぬほどの料理が手をのばせば届くところにあるのに、なぜ給仕が来ないことを嘆き続けるのか。

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まさにこういうことで。とにかくまずは手をのばさなくてはいけない。結果はともかく、とにかく食っとく。腹いっぱい食っとく。それで何か気付くこともある。あるいは何も気付かないこともある。ただ、その結果に一喜一憂してはいけない。また食べる。とにかく食べる。そうしているうちに鈍い感覚も少しずつ鋭くなるかもしれない。あるいは食える量が増えるかもしれない。気付きの感度が上がるかもしれない。気付きのチャンスが増えるかもしれない。その繰り返しでしか人はより良くなれないんじゃないかなあ。嘆くより動けですよ。
それに色んなものを詰め込んでいけば、忘れた頃に何か気付くかもしれんし。

とりあえず頭の中に入れとけば、今は役立たなくても、そのうち何かと結びつく。また結びつきを見つけることで、価値が出てくる。

知識はネットワーク - (旧姓)タケルンバ卿日記

こういうもんじゃないですかね。食べ物もそうでしょ。食べた直後に直接的な体の変化はないけども、現在の体はまさしく過去の食の結果であるわけで。役に立たないと思っていた一口一口が血となり骨となり肉となっている。現在とはまさに過去の集積によって成り立つわけで。
となれば嘆いてなんかいられない。とにかく動くべし。何でもいいから動くべし。現在が過去の集積ならば、未来は現在の結果だ。未来を変えるには、現在を変えるしかない。そのためにはとにかく動く。何でもいいから動く。とにかく食べる。食べ続ける。気付きがなくても諦めない。結果がすぐ出るとは限らない。ただ何かをした分だけ未来の自分は変わるはず。現状に不満があれば尚更動くべき。

自己責任(self responsibility)なんて大げさなものはいらない。必要なのは、自ら手をのばすこと、self-help なのである。

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自分を変えられるのは自分だけ。難しいことじゃない。何かをしよう。何かをすれば、何かが変わるさ。