(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

ジルマニアの苦悩

爵位をとっておいて、こんなことを言うのはややはばかれる。だがあえて言おう。我が育ちは悪い。しこたま悪い。格別に悪い。存外に悪い。
その下劣な育ちは食事の際に発揮される。炒め物を食べるとしよう。食べ終わるとお皿に汁が残る。その汁をご飯にかけたくてしょうがないのである。その汁で一杯行きたいのである。その汁のうまみでいっぱい逝きたいのである。
諸君、ここでの「汁」は「しる」ではない。「じる」と読みたまえ。いや、「ジル」であるな。いいや、「Jill」かもしれん。「Zill」でも良いかもしれん。とにかく、炒め物にしろなんにしろ、皿に残った汁はうまいのだ。それでメシを食いたいのだよ、わしは。
特に定食屋の汁は格別であるな。中華系の炒め物汁。肉野菜炒めの汁は、時によっては肉よりも、野菜よりもうまい。そのような場合は「肉野菜入り汁」と呼びたいくらいだ。汁はメインであり、肉野菜はサブである。
またレバニラ炒めの汁も称えられよう。肉野菜炒め汁は塩味であり、透明である。ワインで言えば白である。一方、レバニラ炒め汁は醤油を効かせておる。色も醤油色に染まっており、ワインで言えば赤に例えられよう。「ジルマニア」と呼ばれる好事家の間では、肉野菜炒めタイプの汁は「ジル・ブラン」。レバニラ炒めタイプの汁を「ジル・ルージュ」と呼ぶ。尚、一家揃ってジルマニアの家庭を「ジルマニアファミリー」と呼ぶ。家族で血で血を洗うが如く汁を奪い合い……いや、これはなんとなく「シルバニアファミリー」にかけてみたかっただけだ。忘れてくれ。
しかし、ジルマニアと言えど、その願望を実現するにはいささか勇気がいる。皿に残る芸術品と言うべき汁に、その最高の相棒と言うべきご飯を投下する。この欲望に満ちれど、それを人前でやるには羞恥心をもよおす。ただでさえこちらは貴族という身分を隠し、お忍びで店を訪れておる。そのような大胆なマネはなかなかできるものではない。
これは何もご飯どきに限った話ではない。居酒屋もなかなかの汁天国である。例えばモツ煮。具をしこたま食べた後、残骸となって砕け散った具の破片と、汁が残りおる。それを見るとき、卿は物凄い欲望に打ち震える。モツのかけら、豆腐の破片、染み切ったネギ、程良く脂を残した汁。そこに白きご飯を投入し、全てをあかつきに染めずして何のジルマニアかと。ここにご飯を投下せずして生きて、何の意味があるのかと。「生きて虜囚の辱めを受けぬ!」と叫びたくなるところであり、まさにハムレットで言うところの「To rice , or not to rice」である。「飯を入れるべきか、入れざるべきか」だ。
また魚系は魚系で困る。魚がうまい居酒屋には煮付けがある。この煮付け汁はジル・ルージュの中のジル・ルージュである。汁界のペトリュスというか、ロマネ・コンティというか。熟成の進んだ深い味わい。単なる塩味にとどまらず、魚のうまみを閉じ込めておる。育ちの悪い庶民どもが争うように食べ尽くし、身や皮や肝の破片が散乱している汁などは至福の極みである。金目が王道であるが、ブリのアラ、ムツのアラなど、下品な部位の方がかえってうまい。正統な切り身より、下等なアラの方が脂がのっており、実はうまいのである。そしてその脂が汁に染み出し、汁の完成度を高めるのである。
問題は酒席ではなおのこと、ご飯を投入しづらいことである。また、卿の悩みも知らず、店の者は空き皿と思い下げていく。無礼な! 卿は悩んでいたのだ。食べたいのだ、汁を吸いきったご飯を。全てのうまみを吸収しつくしたご飯を。その悩みも知らず、わしの汁を……わしの汁を下げおって。わしは口惜しい。飲んでいる場合ではない。ビール。否! 熱燗。否! 目の前の汁を味わいつくすには白く輝くご飯である。ご飯をわしによこせ。よこすのじゃあ!
かくしてジルマニアは悩ましい日々を送っておる。貴族でありながらジルマニアである卿にとっては厳しい日々である。つい先ほども黄金に輝くきくらげ炒め定食の汁を、皿ごと下げられたばかりである。あの岡部幸夫元騎手似のオババめ。ヤツはツンデレに違いあるまい。このわしにこんな仕打ちをするとは。シャトー・ムートン・ロートシルトになぞらえようきくらげ炒めの汁をわしから奪うとは。ううう、悩ましいヤツ。
ジルマニアの苦悩は尽きない。
タケルンバ卿記す)