(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

残虐を知るには残虐に触れよ

リアルで残虐なものをさせるわけにはいかんのだから、バーチャルな残虐ものを見せたほうがいいんだと思いますよ。

個人的な体験としてはあれかなあ、鳥をさばいたことかなあ。以下グロい表現があるので、記事をたたんでおきます。
母方の実家では鳥小屋でニワトリを飼っていたんですが、帰省すると鳥鍋で歓迎してくれたのですよ。で、ガキのオレも手伝えと。鳥鍋完成までの一部始終を手伝う。鳥小屋の中から手頃な鳥を捕まえ、足を縛って頭を下にして吊るし、頭をかっさばいて血抜きをするところからやるわけですよ。
でもって熱湯につけて羽をばっさばっさ取る。見た目がつるんとしたら、包丁を入れて身をかっさばく。ここが手羽で、ここがモモ肉。レバーがこれで、砂肝があれ。おっ、珍しい、ちょうちんができてるな。卵になりたての部分。これがちょうちんって言うんだぞ。骨も捨てるなよ。それなダシを取るんだからな。ナンコツも食べられるんだぞ、肉と一緒に叩いて、お団子にしようね……こんなやりとりをした。
で、この一連の作業って猛烈にグロいんですよ。グロい。鳥を殺す。血を抜く。皮を剥ぐ。八つ裂きにする。悪く書くとこういうことね。でも、こういう経験を通じて鳥肉の背景を理解できるようになった。生きている鳥が鍋になる一連の過程を知ることで、「あ、食べ物ってこういうことなんだ」ってわかったのですよ。さっきまで生きていたものが死に、鍋になり、それを食べる自分。生と死を考えさせるひとときでもありますよ。はかなさとか、あはれとかね。
あるいはアウシュヴィッツの写真集かなあ。この鳥をさばく作業と前後するように、たまたまアウシュヴィッツの写真集を図書館で見たんですよ。それを小学校の低学年くらいで見たのかな。何故か偶然に。で、それはそれは重い内容で、写真も衝撃的だったし、モロだったんだけど、それを見たことで人間の残虐性とか凶暴性とかに思いを馳せた面がある。もちろんそこは所詮小学生で、大したことは考えていないんだけど、それでも自分で考えたことに意味がある。

画像・映像系のコンテンツは視覚から意味を読み解く能力がないと理解できない。

残虐なコンテンツを子どもに見せないのは、子どもに意味がわからないため - finalventの日記

確かにそういう面はありますけど、それでもコンテンツを与えないと、いつまでたっても読み解く能力が身につかない。トレーニングの材料にはなると思うのですね。子どもにとって衝撃的であるけども、それによってなにかの考えを得るきっかけになるかもしれない。

その視覚から意味を読み解く能力そのものが、経験を通して獲得されるのではないだろうか。だとしたら、残虐を体験もせずましてや視聴もしない子供は、いつになったら残虐を理解するのだろうか。

404 Blog Not Found:残虐なコンテンツ?オレのはらわたのことか!

そうだと思う。残虐性を理解するには、残虐なものを通して理解させるのがいい。まして残虐性に関してはリアルな体験をさせるわけにいかない。鳥鍋のケースは鳥だから許される。それを人間でやるわけにはいかない。あくまで鳥という疑似体験。アウシュヴィッツも過去の写真。過去にあったもの。それを現実にこれからやってはいけないし、やるべきでもない。であるならば、そういうバーチャルなものを教材に学ぶっていうのは、そんなに悪くないんじゃねえかと。人殺しが悪いと教えるには、バーチャルな人殺し体験をさせるとか、過去の写真を教材にする方法が有効だと思うわけだ。
但し、これは価値観がわかれるところ。「それでも子どもには見せるべきではない」という考え方にも理はある。

僕はグロいコンテンツに正直動揺したし、ああいったものを自分の息子たちが今の段階でみれてしまっては問題があると思うけれども

残虐なコンテンツを子どもにみせるべきか - 雑種路線でいこう

問題があるというのもひとつの意見。もちろんオレだって動揺しましたよ。でもオレは動揺した経験がいいと思っているんだよね。それが自我をつくると思うんで。でもそれに対して「動揺させるべきではない」と言うのもわかる。問題があるという考え方もひとつの見解。

子ども達に残酷なコンテンツを見せるべきだと。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20080320/1205987397

ここまではちょっと言いすぎかなあ。「……べき」とまでは思わない。親としてこういう哲学を持っていることは良いことかもしれないけど、それを他の人にあてはめるまでは難しい。自分の中では残虐なコンテンツに子どもの頃から触れて、残虐性について考えさせたほうがいいと思っているんだけど、それが万人にとって正しいかと言われると、疑問な点もあるわけで。ある程度、親のコントロールが必要であることも確かだし。残虐なコンテンツが教育上有用になるのは、それを教材とする環境があってこそで、何でもかんでも野放しでいいとは思わないんだよね。

残虐な映像は恐怖といった感情を惹起させて、恐怖によって書かれたことをそのまま無意識に洗脳させしまうに近い状態になるということ。

残虐なコンテンツを子どもに見せないのは、子どもに意味がわからないため - finalventの日記

こういう危険性もある。なので、最低限の安全装置として親が必要だし、親がコントロールできる範囲内でそういうコンテンツに触れさせることが必要なのかなあと。アリにしてもナシにしても、画一的な判断で対応する話じゃないような気がしますよ、ええ。

単に国で基準を決めて子供たちを残虐なコンテンツから隔離すれば済む話ではなく、世の中にそういう現実もあるのだということを踏まえつつ、教育効果を考えながら保護者などの意思に基づいてゾーニングできる柔軟な枠組みを考える必要があるだろう。

残虐なコンテンツを子どもにみせるべきか - 雑種路線でいこう

残虐だからって見せちゃダメじゃ物事は何も解決しない。「見せてもいいよ」という社会にしつつ、親の責任において対処すればいいと思いますよ。見せてもいいし、見せなくてもいい。但し、どっちにするにしても親の責任でよろしくねと。そういうことでよろしいのでは。今までずっとそれでやれてたわけだしね。いくらネットでそういうコンテンツに触れやすくなったっていっても、昔だっていくらでもそういうものは転がっていたわけで。今更それを規制する理由にはなりゃしませんよ。ま、それをコントロールできない親が増えているから、こういう議論が出てくるような気もするな。
オレが親だったらかつてされたように生きた鳥からさばくのを体験させて、過去の残虐な事例を追体験させて、早めに残虐性について触れさせたいと思っております。リアルに残虐なことをされちゃ困るのでね。なので、残虐コンテンツを一括禁止されると困るなあと。教材として使える余地は残しておいて欲しい。ま、なきゃないで、あるところに連れていくけどさ。タイのバンコクにある死体博物館とか。あれは死生観が変わるよ。是非どうぞ。