(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

字がうまいヤツはできる!?

個人的な思い込み。

「字がうまいヤツはできる」

誤解してもらいたくないんだけど、「字がヘタなヤツはできねえ」とは思ってないからね。あくまで「字がうまいヤツはできる」。
まあ根拠も何もない思い込みで、イメージによるところも多いんだけど、字がうまいと他の何かもうまいことが多い気がしているのですよ。長所が長所を呼ぶっていうのかね。不思議とそういう傾向を感じる。

量を書いている

何かがうまい人は、その背景に量をこなしているもんです。量の裏付けがあって質がある。字がうまい人は、大抵字をたくさん書いている。そういう過去がある。経験がある。あるいは今もそうである。経験量が質の向上に変異するまでに書いているから、字がうまくなる。
いきなり字がうまい人なんていませんしね。字にはそういう天才性はほとんど発揮されない。字がうまい人でも、しばらく書いてないとヘタになるくらいだし。日々の繰り返しや経験、慣れによって字はうまくなるし、維持できる。うまい字を見ると、その人のそうした過去の蓄積に思いをはせてしまうのですよ。「おお、この人はこれまでたくさんの時間を書くことに費やしてきたんだなあ」と。
そういう地道な繰り返しがあるので、比較的我慢強いタイプが多い気がしてます。悪い結果が出ても粘り強く取り組むというかね。そんなイメージ。

平面認識力がある

字がうまい人ってデッサン力があると思ってます。字の美しい形やバランスを認識し、それをものにしている。だから書ける。再現できる。うまい字を書くには、うまい字をわかってないと書けない。それを認識できているんです。平面認識に長ける。空間認識まではわからんけど、平面認識とは相関があるような気がします。

頭と体が一致している

そしてそれを実現するには頭と体が一致してなくちゃダメ。認識しているうまい字のイメージと、それを実際に書く手の動き。それが一致してこそうまい字が書ける。どっちか一方ではできない。イメージを実現するに足る能力を持っている。
量を書くって、これを一致させるトレーニングであるんだよね。イメージと結果をすり合わせていく作業。手本を見て書いても最初はうまく書けない。目で見たものと、手で書くものが一致しない。しかしそこで諦めず量をこなしたり、見本の上に紙を敷き、なぞって練習したりしていくうちに、少しずつイメージ通りのものが書けるようになる。イメージと結果が一致していく。「心技体」とはよく言ったもんですよ。

何かに長ければ何かに秀でる

「字がうまい」というところからこうした話を書きましたが、何も字に限ったことじゃないんだよね。なにかできる人は、その他のこともできることが多いんですよ。何かに長ければ何かに秀でる。
ピアノなんかも楽譜と現実の演奏を一致させる作業ですしね。楽譜がある。弾くべきものは決まっている。しかし初見ではなかなか弾けるものではない。何回か繰り返し弾いてみて、指に馴染ませる。間違いを修正していく。楽譜と現実のズレを調整していく。そうやって演奏はできるわけですよね。
で、こうしたプロセスが身についている人は、他のことに関しても同じことができる。我慢強いし、調整能力がある。そして何より諦めない。自分ができることを知っている。できるようになることも知っている。そういう面がオレにこういう思い込みをさせているのかなあと。そう思う次第。
まあ中々実がつき花開くまでには時間がかかるし、大変なんですがねえ。手っ取り早く字がうまくなりたいわけで。過程を否定すると結果を得られないことはよくわかってはいるんだけどねえ。結果欲にはあらがえません。だって、楽したいんだもん。