(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

自分であって、自分でない

これ、わかるなあ。自分だけど他人のように思えることって確かにある。

自分が変わったというのの知覚に近いのか、過去の自分が、他人のように感じられるというのがある。
自分が確かに経験した過去なのに、他人のような。
自我の体勢変化というか、意味受容の全体が変わってしまったような。
もうちょっと不気味なこというと、自分の肉体に、すーすーっと精神的なボディが入れ替わったような。

そういえば - finalventの日記

決してオカルト的な話じゃないんですけどね。感覚として同じ自分とは思えないときがある。
例えばオレの場合、このブログがまさにそう。過去の記事にリンクするついでに読み返すことがあるわけですが、まるで人様のブログを見るような感覚で読んでいることがありますよ。書いた人が見てるのにね。書くのも見るのも同じ人なのに。自分で書いたものなのに面白いことあるもの。
「いいこと書いてあるなあ。書いた人の顔が見てえよ……オレやがな」みたいな。
やっぱりこれも静的平衡と言うんですかね。同じ人に見えて同じ人でない。

同じように見えて同じようではない。徒然草で言うところの「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。たかだが10分、20分前の自分ですら過去になっている。新たな知識や感情が取り込まれ、その結果、同じ材料を与えられても違う答えが出てくる。そういうことなんだろうねえ。

聖なる一回性 - (旧姓)タケルンバ卿日記

外見は一緒でも、同じ自己という存在であっても、中身は全然違っている。自己を構成する要素が変わっているので、同じ自分であっても、それは他人のようなもの。入れ物が一緒でも中身が違うのでねえ。不思議なことだけど。
ブログでなくても、日記なんかもそうだよね。5年日記とか10年日記とかでつけていると、同じ人間なのに書き方が変わる変わる。文体も変わってくるし、内容もテンションも変わる。そのときの自分のありのままが出ているってことなんだろうけど、変化の様が露骨。「おいおい、同じ人間だろ」とツッコミたくなるほど。
しかもその変化のきっかけがあるとは限らない。気がつくと変わっている。よくわからんが変わっている。理由もなく変わっている。明確な変異点がない。ある点までは同じモジュールで動いているんだけど、突如バージョンアップする。新モジュールになる。「2.0」になる。不思議だよねえ。何でだろ。断りもなく変わりおって。変えようと思っても変わらないクセにさあ。

逆に、好きだった人を憎んだり、嫌いだったりというのは、同じ人のまま。というか、同じ自分でありたい自分が、憎しみを掴んで離さないのだろう。

聖なる一回性 - (旧姓)タケルンバ卿日記

逆にこういう部分は静的平衡が起きない部分なんでしょうね。「憎い」とか「嫌い」という感情は、あまり他のもので置き換わらない。ある人、あるモノ、ある出来事と関連付けられてインプットされているので、「憎い」は「憎い」で置き換わる。別の感情で上書き保存されにくい。精神的な新陳代謝のスピードが、負の感情の方が遅いのかな。好きな対象にはなるべく近づこうとするので、関連する経験をし、それを体内に取り込むけども、嫌いな対象には近寄らないので、その感情がそれっきりになると。そんな気がしますな。
そう強引に考えていくと、自己を変えるものはポジティブな感情ではないかと。新陳対象がより早い、静的平衡が進みやすいのはポジティブである。新たなポジティブな感情、経験、思考が現在を過去にする。新たなものを受け入れて、新たな自己となる。その結果、人間はひと皮向けて、同じ自分であっても他人の如く変化するんだなあと。そんなことをぼんやり考えてしまいました。ポジティブは変化のための栄養なのかもね。
もっとも、ネガティブな空気を吸いすぎると、さすがにネガティブ方面に変わることも事実。オレは幸いバカポジティブなので、ネガティブ方面には耐性があるからいいんだけど、耐性がないと引きずられるだろうねえ。そういう方はネガティブな空気を吸わないこうとが肝要。タバコにおける嫌煙権といいますかね。「嫌ネガティブ権」でも発動してみるとか。そうするとメンタルヘルス上よろしいかと。日頃の生活がなんだかんだで自分に返ってきますからね。
現在の自分は時の経過に伴って他人になり続けるわけですが、過去の自分を笑って見れるような未来の自分でありたいもんです。