(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

また会えるといいね

最近、いつも見ているブログ・サイトが閉鎖・休止・更新停止が相次いでいて、ちょっと萎えております。ごくごくシンプルに悲しい。
何が悲しいって、これからがないんだよね。ある意味、死んだようなもんなんで。ま、リアルで知っている人じゃないし、ネットを通じて自分が見ているだけの一方的な付き合いなのだけど、その付き合いが絶たれてしまうのが悲しい。今後の付き合いがなくなるのが悲しい。
音楽のバンドやグループで言えば「新譜が聞けない悲しさ」っていうのかな。今までの記事が読めなくことよりも、これから新たに書いたであろうものが見れなくなる。中の人はどっかにいて、生きているんだけど、関係は死んだも同然なんだよね。変わらなくなるって死だからさあ。大げさな表現かもしれないけど。
もちろんそうするにはそれなりの理由があって、更新継続を無理強いすることはできないし、その人の判断なんだから尊重したい。他人がとやかく言うことじゃないからね。でも、続けたいという気持ちを、辞めたいという気持ちが上回った。これが悲しい。それまでは何かしら続ける動機があって、ブログやサイトを運営していたはずなのだけれど、ある一点で辞めたい気持ちがそれを上回った。その結果、閉鎖・休止・更新停止となった。死を迎えた。こういう経緯が悲しいのですよ。やるせない。
ことそこに至る過程に何があったのか。それは本人しかわからないし、それを他人に語る必要はまったくないのだけれど、小さいながらもブログ・サイトを運営している人間として、それは非常につらく悲しいことであるなあと。何もなければ続けていけるのに、生きていられるのに、何故自ら死なねばならんのか。どうしてそこまで追い込まれたんだろう。運営者という意味では他人事じゃないので、尚更悲しい。
とはいえ、リアル社会で人が死んだときでもそうするように、悲しいながらも自分は生きていくし、やがては悲しい気持ちも忘れる。オレみたいな鈍い人間にとって、死とはその程度の感傷なんだけども、この「悲しい」という感情を最後に、新たな感情を生み出さなくなることがもの凄く悲しい。笑い、むかつき、喜び、疑い、納得し、いぶかる。それが今後できないのが本当に悲しい。
唯一の慰めは、それがリアルな死じゃないこと。中の人は生きている。であれば、またいつの日か復活する可能性がある。閉じたものは開けばいい。休んでいるなら動き出せばいい。停止したものは開始すればいい。死とはいってもバーチャルな死。いつでもまた生に戻れる。
それを願ってたまにアクセスするんですけどね。ほとんどは変わりない。死んだまま。放置されたまま。
でもたまに復活するものもある。それを見つけると凄くうれしい。死に別れた彼女と再会するかのような。そんな感覚。男のブログでもそんな感じになりますよ。再開を待ち焦がれる気持ちは男のブログでも女のブログでも一緒だから。
コメント欄が荒れた。個人情報晒された。ネガティブコメントに萎えた。トラックバック先で叩かれた。更新に疲れた。日常が忙しくなった。面白くなくなった。ブログやサイトを閉じる理由は人それぞれだと思いますが、やれる範囲内で続けて欲しいものだし、離れた人もいつか帰ってきて欲しいなあと。いつかまた会えるといいなあ。シェーン、カムバーック!