(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

デビュー曲が最もその人らしい曲説

このスレ主の考え方に思わず納得。

年月が経つと殆どのアーティストが売れ線を狙った曲ばかり発表して
個性・オリジナリティーが無くなっていく。
デビュー曲はその時点でアーティストに最も合った曲として発表された筈。

そんな板orスレッドないです。

しかも挙がっている例が浜崎あゆみ。……ううむ、なるほど。確かにそういう面はあるわな。浜崎あゆみのシングルCDディスコグラフィを見ても、なんとなくそういう気がしてきません?

デビュー当時は「等身大のワタシ」路線。強くなりたいワタシ。弱いワタシ。ひとりぼっちのワタシ。愛されたいワタシ。そういう普通の女の子であるワタシを出してた。歌詞にもそういう感じが出てた。

この3曲はそういうのがよく出てますよ。等身大の悩む女の子像。歌うワタシに、聞くアナタ。浜崎あゆみとの関係は1対1。聞く側も自分の姿を浜崎あゆみに投影することができたし、自分の代弁者としての歌であり、歌詞だった。
また歌い方にしても、当時は声を張る必要もなかった。ナチュラルな歌い方でいい。自然に声を出し、自然に声を切る。無理にビブラートをきかせる必要もないし、不自然に語尾をのばす必要もない。カラオケの延長的な感覚って言うのかな。等身大の女の子を志向していたので、それで良かったし、むしろそれが良かった。特別なことは何もいらなかった。
しかし時が経つにつれて変わってくる。

ここで出るのは「僕達」「彼達」「私達」「彼女達」。ひとりぼっちの寂しさから解脱しているし、いきなり聞く人を仲間にしている。「達」がついているので、もはや1対1の関係でもない。1対大勢の関係。歌うワタシと、聞くあなた達。

「SEASONS」にしても、序盤は初期の曲と同じような等身大っぽさだけど、最後にはやっぱり「僕ら」。1対1には戻れない。
そして極めつけは「M」。

この曲で完全に等身大モデルからディーヴァモデルに移行。「○達」「○ら」という同目線の関係、一緒の関係から、上から目線発動。聞かせるワタシと、聞く全ての者達。1対大勢が1対全体になった感じですよ。
また歌い方もだいぶ変化が出てくる。


等身大のワタシを捨てた以上、特別のワタシでなくてはいけない。他の人と同じじゃダメなのだ。同じであっちゃいけない。となれば、声は張らないといけない。ビブラートをきかせないといけない。不自然なことをすることで、特別な自分にならなくてはいけない。そんな気がするのですな。
浜崎あゆみはこのディーヴァモデルが成功し、特別な地位を築いた。うまくいった。しかしこの変化は果たして素の姿なのか。実はビジネス上の要求ではないのか。等身大のワタシだと、相手にできる客が限られる。それでは限界がある。ならば、ある意味グルとして多数を相手にしようと。多数を相手にするための、売上を増やすための変化じゃないのか。そう考えざるをえない部分がありまして。

年月が経つと殆どのアーティストが売れ線を狙った曲ばかり発表して
個性・オリジナリティーが無くなっていく。
デビュー曲はその時点でアーティストに最も合った曲として発表された筈。

浜崎あゆみに関しては確かにそうだなあと。デビュー曲がナチュラルで良かっただけに、納得してしまったのでした。