(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

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照れずに語ろう「愛」と「恋」

「愛」と「恋」について。

恋愛感情は恋からはじまり愛になり、そしてまた恋で終わる

「愛」と「恋」に関するどうでもいい考察 - エッセイ的な何か

おお、カッチョいい。きれいすぎるなあ。見事なまとめだ。
このまとめの後にモテ属性どころか、見事なまでの非モテ属性のオレが書くのはなんですが、オレはこう考えてます。

「愛」とは「give(与える)」であり、「恋」とは「want(求める)」である。

……カッチョ良すぎですか?

愛は無欲

愛に関しては結婚式でもよく語られる愛の賛歌が有名ですね。「新約聖書」のコリント人への第一の手紙、第13章。

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

http://www.wcsnet.or.jp/~m-kato/bible/1corinth.htm

このように愛とは無欲であり無私。代償もない。ただそこに愛がある。愛するという心情がある。ただそれだけ。
なので実らぬのもまた愛。片思いにもなりやすい。だって欲がないのだから。見返りを求めないのだから。でも、それでも満たされるのが不思議なところ。「give」で満たされる。相手のアクションは関係ない。無欲だからなせる業。

恋は貪欲

一方、恋は逆。端的に言えば「お前が欲しい」です。「I want you」です。「やらせろ」です。好きなのです。自分に好きという感情があるのです。そしてその感情を向ける相手がいる。その相手を何とかしたい。話したい、デートしたい、一緒にいたい、キスしたい、Hしたい。これはすべて「want」なのです。欲しいのです。「欲しい」である以上、それは欲なのです。
なので、恋は満たされることがありません。欲望と充足の繰り返しです。次から次へと欲は出てきます。恋とは欲求なのです。欲しい、求めるという感情。これはとどまることを知りません。同じ相手であればもっと深い付き合いを。同じ相手に不満に思えば、もっといい相手をと、エスカレートする一方。恋とは貪欲なのです。

恋は麻薬

同時に恋は麻薬であり中毒性があります。ズバリ言って、愛より楽しいのです。快楽性があるのです。何故なら見返りがあるからです。ご褒美があるのです。見返りがないものよりも、直接的な利益があった方がいいのです。メリットがあるのです。ぶっちゃけ、気持ちいいのです。やめられないのです。
だからこそモテ・非モテなんて言葉もあるのです。なんだかんだでモテの方がいいと思っているから、こういう対立軸があるのです。モテの方が欲を満たしやすいのです。もちろんオレもモテ希望です。隙あらばモテたい。いつなんどきでもモテたいのです。それは欲があるから。欲を満たしたいから。そのためには非モテよりモテがいいのです。都合がいいのです。

愛は幸福

但し、恋はいつまでたっても幸せにはなりません。満たされることはないからです。欲の器はときに満ちれど、また次の器が登場します。しかもわずかに大きくなって。どれだけ多くの欲の器を満たしても、次から次へと欲の器は横から登場します。満足感を得られることのない無間地獄です。
ところが愛には満足があります。幸福があります。しかも簡単です。与えればいい。与えることで幸せになる。人を幸せにすることで自分が幸せになる。しかもモテ・非モテ関係ない。自分の属性など意味を持たない。見返りを求めないのだから、自分の姿は問われないのです。

愛はキモい

けれども注意すべきことがあります。愛は恋と間違えやすいのです。「give」の押し売りになることがある。「give」のつもりが「want」になってしまうのです。
こうなると愛はキモい。単なる一方的な自己愛です。ストーカーはこの類と言えましょう。ストーカーが愛しているのは、ストーキング相手ではありません。ストーキングをしている自分自身です。その自分を受け入れるよう迫っているだけなのです。
本当の愛は相手への思いやりが必要です。キモいと思われる時点でアウト。相手の幸福を祈ってこそ愛。であるならば、キモくならないような心遣いができてこその愛であります。自己愛と相手に対する愛を分けてこそ。キモいかどうかという問いは非常に大事なところであります。
以上、つい最近振られたばかりのover30による「愛」と「恋」の話でした。……どう考えてもオレが一番キモいな。