(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

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猪木と松っちゃんの間の越えられない壁

松っちゃん考を書いたわけですが。

この記事のトラックバック記事で気になる部分があったので、今回はそれについて書いてみたいなと。
そのトラックバック記事はこちら。

矢沢永吉とかアントニオ猪木とかもそうですが、カリスマというのは瞬間というのに生きていて、その瞬間に何を考えたか何を思ったかというのを、さも人生をかけてしぼりだしたような雰囲気で言えるかがカリスマと言わせれる存在にとって大事な所です。

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おお、猪木で来ましたか。猪木ねえ。猪木の名前を出されたら、昭和プロレスファンとして黙ってられません。幸い、id:toronei氏は「僕はプロレスが分かんないから」とおっしゃっているんで、ここはオレの領分。何せこちらは猪木を見続けて四半世紀。金曜夜8時の「ワールドプロレスリング」で育った人間でございます。今回は松っちゃんと猪木について。
猪木を長いこと見ている人間として思うのは、この人のまとっているカリスマ性は、松っちゃんとはかなり違う。まるで違う。かなり異質。

見られることを意識した猪木

猪木というのは徹底的に見られることを意識した。ある種の美意識に裏打ちされた、完璧なセルフプロデュースを目指した人。
例えばリングシューズのくつひも。猪木といえば黒のリングシューズに、白いくつひも。猪木はくつひもの純白を強調するために、毎試合新品を使っていた。何回か使っても良さそうだけども、わずかの汚れがついてもダメなのだ。人が見る猪木は完璧でなければならない。
またリングコールのたたずまいもそう。「アントニオー!」でガウンの帯をしゅるると解く。「イノーキー!」でその帯を両手に構えてガッツポーズ。いつも、いつでも猪木は同じポーズ。わずかな狂いも許さない。それが猪木。猪木のカリスマ性は、自己演出によってつくられていた面が強い。

見られることを意識しない松っちゃん

一方、松っちゃんは人の目を気にしないし、その必要もない。何故なら、自分は面白いから。議論の余地もない。自分が面白いと言うものは面白い。すべての基準が自分の中にあるので、他者に依存する部分がない。
なので、面白すぎる芸人を天才と呼ぶのであれば、当然に自分は天才である。天才芸人がまとうものをカリスマ性と呼ぶのであれば、当然に自分にもそれがあり、自分はカリスマである。そういう単純な話なので、他者の目をまったく必要としない。人が言おうが言うまいが、自分は面白く、天才であり、カリスマ。
つまり猪木と松っちゃんの差は、「カリスマになろうとしている」猪木と、「カリスマであるにきまっていると思っている」松っちゃんの差なわけです。そもそもの前提が違う。だから他者の視線を意識するかどうかの差ができる。

別人格が必要な猪木と、別人格がいらない松っちゃん

またこの差があるせいで、別人格の必要性にも違いが出てくる。猪木の場合、アントニオ猪木という人格を猪木寛至が演じているという側面がある。本当の猪木寛至がどういう人間かはさておき、誰かに見られている間はアントニオ猪木を演じなければならない。「カリスマであるアントニオ猪木はこういうときどうするか」という基準で動かなくてはならない。より猪木的でなければならない。
一方、松っちゃんの場合、別人格を持つ必要性がない。松っちゃんは松っちゃんであり、松本人志である。特別松っちゃんらしくする必要がない。何せ松っちゃんが考えることは、なんでもかんでも面白いのだ。

自分が面白いものが面白い。

こういうトートロジーを本気で思い込んでいる。なので誰かを演じる必要もない。いつも通りに自分が面白いと思うことを外に出すだけ。それだけでいいし、それ以外のことを考える必要がない。このように両者は斯様に違う。かなり違う。
この違いを頭に入れて、他のカリスマ的な人を見ていくと、別人格を演じているという意味で、アントニオ猪木長嶋茂雄松田聖子藤山寛美浜崎あゆみが近く、松っちゃんはイチロー山口百恵立川談志宇多田ヒカルと近い。こう考えるとわかりやすいんじゃないかなあ。
以上、猪木と松っちゃん考でした。