(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

ジャンルをクサす意味がない

ブログをジャンルと見る発想が古い気がするんだけどね。

「一億総ブロガー」などと言われ、誰もが日記感覚で書く空前のブームが起きている中で、最近はブログを読むのがつまらなくなったとか、ブログなんか終わりだとか、そんな話を聞くようになった。

読んでもつまらない 「ブログ」はもう終わったのか井上トシユキさんに聞く(上) : J-CASTニュース

こういう話に凄く違和感があって。オレにとってブログはツールなのでね。ネット上に文章を載せるための単なる道具。表現形式。書いたものをネットに出している。ネットの中でブログという形式でやっている。以上。
なので、オレのブログがつまらない場合は、オレの書いたものがつまらないってだけ。ブログにあろうが、どっかの雑誌に書いてあろうが、本として出版されてようが一緒。内容がダメだから、つまらないと思われる。決してブログという道具が悪いわけじゃないよね。形式の問題じゃなくて、内容の問題。
「最近は面白い本がない」からって「本オワタ」じゃないよね。どっかに面白い本はあるよね。本という形式が悪いわけじゃないよね。ブログもまったく一緒だと思うんだよな。内容と形式をごっちゃに考えてる気がする。発表の場にケチつけてどうすんの?
あと思うのは、ブログを特別視しすぎ。そんなにブログって凄いものなの? また凄くなきゃダメ?

井上 書かれた内容の信憑性が不明なこともあって、日本ではまだ「ブログはメディアだ」とか言われてもピンときません。そんな状況なのに、ブログをビジネスとして拡大したい、ブログ界隈で主導権を取りたい人たちなどによって「ブログこそ次世代メディアだ」と煽られてしまった。

読んでもつまらない 「ブログ」はもう終わったのか井上トシユキさんに聞く(上) : J-CASTニュース

そもそもメディアである必要もない。「メディアとして使うこともできる」でいいじゃん。道具なんだから。要は使い道の問題。「ブログはメディアである」という決め付けがあるから、非メディア的な使い方がダメになるわけでしょ。

井上 アメリカのトップブロガーは実名を出し、自分で取材や調査をしていますが、日本のブロガーは基本的に匿名での論評が多い。

読んでもつまらない 「ブログ」はもう終わったのか井上トシユキさんに聞く(上) : J-CASTニュース

これは日米の使い方の差というだけで。アメリカの使い方が正しくて、日本の使い方が間違っているなんて言えないもの。むしろ日本のようにハードルが低くて、誰でもブログを開設できる。いろんなブログがある環境のほうが豊かだと思うよ。いろんな使い方があるから、いろんな方向に発展する面もあるわけで。メディアとして使うだけじゃなく、様々なことにトライする意義はあると思うな。
また匿名であっても内容如何で読まれるわけだし。「きっこの日記」はまさにそういう例でしょ。名前や肩書き、属性とかに関係なく、書いた内容で評価される。それでいいじゃないですか。匿名がダメで、非匿名がいいなんて幻想ですよ。誰が書いたっていいものはいいよ。そしてブログだろうが書籍だろうが、どこに書いてあろうといいものはいいよ。そういう外観主義から実質主義への転換こそが必要な気がしますがね。
ま、極論するとあれだな。「貧乏人は車に乗るな」みたいなテイストを感じるな。「オマエらが車に乗るから渋滞するんだよ」という自称金持ちのひがみの感覚。「わかってねえヤツはブログすんじゃねえ」みたいな。「ブログはオマエらがやっていいもんじゃねえんだ」的な。そういう香り。

――草の根からメディア化したアメリカとは違った?

読んでもつまらない 「ブログ」はもう終わったのか井上トシユキさんに聞く(上) : J-CASTニュース

参入障壁の低さという意味で、十分草の根に定着しとるがな。アメリカと違う方向性とはいえ。それぞれが個人メディアとして有意義に使ってるよ。
こういう「ブログはこうあるべきだ」という「べき論」からは何も生まれませんよ。まして、ちょっと気に入らないことがあるからと言って、ブログ全体をクサすようじゃダメだわな。

――「ブログはつまらない」という話をよく聞きます。

読んでもつまらない 「ブログ」はもう終わったのか井上トシユキさんに聞く(上) : J-CASTニュース

「つまらない」と言う前に、面白いブログを見つけなよ。結構あるよ、あちこちに。「つまらない」と嘆く前に、面白いを探す能力を磨くことだね。情報の洪水の中からお宝を探し出す。メディアに求められるのは、ブログをクサすことじゃなくて、面白いブログを見つけ出すことだと思うよ。伝えることがメディアの使命でもあるわけだからさ。