誰のために書くのか
弊ブログの場合、完全にオレ個人のブログで、やりたいようにやっているわけであります。ベースは自己満足であり、好き勝手。とはいえ、書く記事によっては書く対象を意識することがあります。自分のためにやっているブログなわけですが、「誰のために書くか」は結構変わる。記事ごとに違うこともあります。
特定個人のために
一番狭いのはこれ。ある人のために書く。
キミのためにつくった曲なんだ。
みたいな。BOOWY好きは「キミ」を「オマエ」に、GLAY好きは「アナタ」に変換すると吉。ミスチル好きはそのままでOK。
もちろん内容は恋愛とは限らない。「オマエのここが気に入らん」とか「ここ直せ」だったりすることもあるし。中身は色々。
で、この場合、内容はかえって全体に向けて書いてるような感じになる。対象が特定されてるので、文章上はぼんやりさせることが多い。直接言うより、ブログで遠まわしに言ったほうがいいから書いてるわけで、表現はかえってマイルド。文章上は対象ぼんやりだけど、書いてる本人からすると、ガッツリ個人を狙い撃ちしてたりする。
「気付くといいな」くらいの願いで書くのは大抵このパターン。リアルで知ってる人間でもそうだし、リアルを知らない人間であれば尚更そう。直接言う方法がないのでね。「意を汲み取ってくれればなあ」くらい。
ぼんやりとした特定多数のために
ある程度かたまりがイメージできる場合。「社会人」とか「大学生」とか「これから○○をはじめようと思っている人」みたいな。
オマエらのためにつくった曲なんだ。
というパターン。X好きは語尾をもうちょっと乱暴にすると吉。
この場合はもうちっと対象を明確にすることが多いかな。ある程度明確にしても、そんなに角が立たないので。角が立つ場合は自重することもあるけど。
願いレベルは「役立つといいな」くらい。使う人は使えばいいし、使えないと思えばスルー推奨。都合よく処理していただくとありがたい。
自分のために
インターネットという外界に発信するツールを使っときながら、実は自分に向けて書いてるときがある。
自分のためにつくった曲なんだ。
という意表。ある意味、究極の自己満足であるな。ナルシストメソッド。「何故キミは書くのか」に対して「美学」というヨシキ(@とぶくすり)。
実はオレの場合、この割合が結構あったりする。人向けに書いといて、実は自分向け。
思考の整理
書くことで考えがまとまったりする。出力しないと、入力された情報が整理されんもんで。人と話すのもそうだし、ものを書くってのも思考の整理に具合がいい。ポイントをまとめないと、文章として形にならんのでね。
……なぬ? オマエの記事はまとまってない? どこが思考の整理できとるんだって?
そういう疑問をお持ちの人にはヒントを差し上げよう。
(ヒント)まとまって、このレベルってことは?
凡才だからこそ必要なのだよ。
思考・感情の記録
その都度、その都度思ったこと、感じたことを書いた集積がブログという形になるので、記録に丁度いい。時系列で残るし、言葉で検索できるし、自分記録ツールとしてはかなり具合がいい。
実際、過去ログ見ると面白いしね。自分とは思えないことが書いてあったりするし、感情の変化がわかったりする。たまに読み返すと面白い。
自分への戒め
そして実はこの要素が大きい。エラそうなことをのたまっているときは、大抵このパターン。自分でもできてないことを書いてたりする。人に向けてそれを偉そうに書いてたりする。ところが実際は、それは自分向け。自分への戒めであり意識付け。できていないことを自分向けに書いてたりする。人に言うフリをして、自分に言ってたりする。
また、整理をすることで気をつけることがわかり、記録することで達成度がわかるという関連効果もあったりします。書くことで、それがログに残ることで「オマエが言うな」にならないように気をつけたりできるし。言行一致させる意識ができるといいますか。戒め効果アップ。
そういう意図で書いた記事にアクセスを多くいただくと、結構気恥ずかしい。ああ、自分だってそれはできてないのに。「勉強になります」というブクマコメンツがあった日には赤面モノ。
もっとも、そういう赤面経験があるから、赤面しないようにすっかという意欲も出るんだけどね。エラそうにやんや書いてますが、実情はこんなものであります。かなりの割合で含まれております。ばれてないだけです。微妙に隠しているだけです。イェイイェイイェイのウォウウォウウォウであります。
以上、最後のが使いたいだけでした。いいな、これ(→「イェイイェイイェイのウォウウォウウォウ」)。