(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

映画の見方は全部正解

答えはひとつじゃないかねえ。「全部正解」。

映画でも音楽でもお笑いでも、受け手はいろんなことを思う。感じる。考える。虚心坦懐だろうが悪意があろうが、誠実であろうが不埒であろうが、マジメであろうがフマジメであろうが、とにかく何かを思ったり、感じたり、考える。そしてそれはすべて正しいと思うんですよ。正しい。正解。優劣もなにもない。それがその人の感情である限り、それに上下はつけられない。
上下があるとするならば、自分として受け入れられるかどうかの問題。ある感情が自分にとってどうであるかの上下であって、それは本質的な価値の問題じゃない。「ある人の見方を自分はどう思うか」であって、それは世間的な評価とは関係ない。人に対する個人の評価。
なので予断があってもなくてもいいし、あったところで間違いにもならない。また、予断がないとしてもそれが絶対的な正解であるということもない。全部が正解なのであって、それもまた正解のひとつというだけ。人の数だけ、シチュエーションの数だけ正解がある。すべて正しい。何もかも正しい。
またこれは批評についても同様。ある批評はあらゆる正解のなかのひとつに過ぎない。絶対的に正しくもないし、かといって絶対的な間違いでもない。どんなに偏っていても、それがその人の見方であれば正しい。ワタクシはどんな見方をしようとワタクシの勝手であるように、その人がどう見ようとその人の勝手。偏っているからといって間違いじゃない。偏りは正解ではないとする理由にはならない。あらゆる主観の価値は同値のはずで、それをくつがえすのであれば、自分が他者を否定するように、自分もまた他者に否定されるリスクが出てきませんかね。
それにあらゆることって、絶対的に正しいこと、絶対的に間違っていることは存在しないようになってるんですよ。何でかと言うと、絶対的に正しいこと・絶対的に間違っていることは証明できないから。「絶対的に正しいこと」はたったひとつの間違いで崩れる。「絶対的に間違っていること」はたったひとつの正しさで崩れる。絶対的なことは絶対に証明できないのですよ。たったひとつの事例で崩れてしまうので。
なのでこういう価値観の問題は、それを是とするたったひとつの価値観や、それを非とするたったひとつの価値観で簡単に崩れてしまうので、正しい・間違いの仕分けをしないに限りますよ。

「あらゆる見方はその人の中でのみ正しい」

こういうことにしておいて、人の価値観には踏み込まないことです。一般化できないし、普遍化もできない。あくまでそれぞれの一般化された概念があるだけで、必ずしもそれは共通されていないというところがポイントな気がしますな。

これこそは、まさにそうした予断を持ったことの弊害と言えるでしょう。その意味からも、映画を見る時には、作り手の意図や思惑を考慮しない方が良いのです。それは、映画の見方としてはやはり、「不正解」だと言わざるを得ないでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080818/1219044114

作り手の意図や思惑を考慮した方がその人にとってハッピーなら考慮した方がいいし、ハッピーじゃないなら考慮しない方がいい。それだけの問題な気がするな。もちろん考慮することを「『不正解』だと言わざるを得ないでしょう」と思うことは、そう思った当人にとっては正解だけど、それ以外の人にとっては正解も不正解もないわけで。その人の自由信条の問題でねえ。映画は好きに見ればよろしいかと。
自分の見方を貫けば、それは当人にとっては十分な正解だと思いますです。はい。