(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

社交辞令が効かない会に込めるメッセージ

ござ先輩、熱いな。

せっかくだから、オレも社交辞令が効かない会について書くか。

一応、過去に3回関連の記事を書いております。初出は今年の3月。とはいえ、実はもっと長い歴史がありましてな。「オレ、社交辞令が効かないよ」「真に受けるけど大丈夫?」とかのやりとりは昔からしておりまして、ええ。意外と古い歴史があります。非公式ですけども。
正式にこの名称を使い出したのは、昨年ですかねえ。ゼミのOB会のときに「メシ行こうぜ!」という話になり、「社交辞令は許さないよ」「やると言ったら本当にやるよ」と言ったら「当たり前じゃないですか」「マジでやりましょうよ」という実に気持ちのいい展開になり、その場で日付と会場まで決定。この一連の流れをもって「社交辞令が効かない会」と命名したのがきっかけですね。なので、昨年の11月23日に結成されたので、実は1周年なのでした。
で、メッセージ性なんですけど、こういう感じですね。

ない!

ありませんよ、メッセージなんて。

思ってないことをお互いに言うより、思ったことをそのままに出すストレートでシンプルな関係。この関係構築を我らが「社交辞令が効かない会」は目指しております。

社交辞令が効かない会 - (旧姓)タケルンバ卿日記

一応、こうして目指すものはありますが、これは何かのメッセージ性に基づくものではありません。

ラクに生きようよ

これです。これだけ。で、その方法が、オレにとっては「社交辞令が効かない会」の活動であったと。

  • 「空気を読むのはやめましょう」
  • 「行間を読むのはやめましょう」
  • 「言外のことを読むのはやめましょう」
発言を額面どおりに受け取る - (旧姓)タケルンバ卿日記

これは読まない方がラクだからそうしているのです。面倒だから読まないのです。疲れるから読まないのです。これをしないことでラクになるからそうしてる。それだけの話なのです。

大変な方、大変な方を選んでないか?

ワタクシはラクな方、ラクな方を選んだ結果、社交辞令の効かない会に行き着きました。読まない関係がラクである。であるならば、知り合いだけでもそういう関係を構築した方がいいし、お互い気を使わないで済む関係をなるたけ広げた方がいいと。ムダな労力を省く方向で行きたいと。そういう趣旨で当会を運営しておる次第であります。
なので単なる自分の選択というだけで、それを他人に押し付けようという気はさらさらない。これが正しいというつもりも一切ない。「自分には正しい」「自分には向いている」「自分は好き」というだけで、それ以外のナニモノでもないんですね。だからメッセージ性を持たせようとも思わない。「こういう考え方もありますよ」という選択肢としては提案したいけども、それ以上のことをしようと思わんのですな。
ただ、世間を見る限り、大変な方、大変な方に動く人を多くお見受けするので、こっちの考え方でもいいのになあと思うことは多くあります。大変な方法以外にもいろいろあるんだよ。選択肢は多く用意されてるんだよ。他の手段に気付いてる? そう思うのですな。

熱はいらない

なので、ござ先輩のこの部分とは実は相容れない。

どんなに高い能力があっても、それが結実するためには「熱」が必要。その熱は自分の行動でしか継続して作り出すことは出来ない。ブログを書き続けるっていうのも「熱」が必要になる。「オレはこれが言いたいんだYO」っていうのだって、やっぱり「熱」が必要になる。

http://d.hatena.ne.jp/aroundthedistance/20081125/1227599575

熱がある。それにこしたことはない。でも、熱はいらない。熱までのエネルギーはいらない。ちょっとだけ温かければ上等。何かをしようとする意思さえあれば上等。手抜きしてもいい。サボってもいい。ラクしてもいい。何かしてればそれでいい。熱くても、それを具体的な形にできなければ熱暴走し、火傷するだけ。大切なのは熱量ではなく、得たエネルギーを効率的に表に出す方法。ブログの場合だと、「ブログをやろう!」という熱よりも、「何か書きたいな」と思った時に、如何にそれを具体的な形としてうpするか。製品でもアイディアでも何でも同じじゃないかな。表に出してナンボでしょ。
熱というのは表に出す過程で冷めては意味がない。お湯があったときに途中で冷めるほど長い距離を運んでは意味がない。それよりはぬるま湯でも冷めない距離の方がまだマシ。ムダがないだけマシ。その如何に熱を効率的に伝えるかの伝導効率にオレは頭が行く。微熱でも熱が表に出るなら、それはそれでいいんじゃないかな。熱っぽい熱がなくてもいいんじゃないかな。熱を出そうとすると疲れる。疲れる分のエネルギーを他に使ってもよいのでは。そしてそういう方法が向いた人もいるのでは。全員が全員ござ先輩メソッドがいいとは限らない。他の方法を考えてもいいんじゃないかな。

それこそ、常温でもいいわけでね。

ニュートラルに生きる

id:TERRAZIさんのTwitterでの呟きが引用されてました。

人に嫌われまいと人の顔色ばかり伺う者に、格も品も身に付く訳があるまいよ。それでいて「見下される」「上から目線」。アホか。いつも床から見上げていれば、そうなるのは当たり前だ。胸を張れ。背筋を伸ばせ。ボソボソと話すな。お前はお前だろうが。

http://twitter.com/TERRAZI/status/869565957

オレだったらこう言う。

人に嫌われてもいい。顔色は伺うことはない。格も品も身につけなくていい。「見下す」必要も「上から目線」の必要もない。胸を張ろうとするな。背筋を伸ばそうとするな。ボソボソ話でも気にするな。お前はお前だろうが。

気にしなくていいんですよ。気にしすぎなんです。大体において気にする必要がない人が気にするし、気にする必要がない人間は気にしない。鈍感な人ほど「鈍感力」の有用性を語りたがるようなもんですよ。普通でいいんです。ニュートラルでいいんです。卑下することはないんです。自慢することもないんです。ただただどこかに向かって歩けばいい。あなたが向いた方向が前です。前を向く必要はないんですよ。あなたが向いた方向、あなたが歩く方向が前になる。
社交辞令が効かない会はあくまでその方法論。この方法を取り入れるかどうかは自由だし、ここから何かのメッセージ性を感じるのも自由。ただ、「メッセージは?」と聞かれれば答えは「ない」なのです。それは各人が決めること。ないのですよ。からっぽ。

不親切こそ自由

メッセージ性がないということで、この記事は大変不親切だと思います。結局何の結論もない。「メッセージがない」というのが結論みたいなものですからね。不親切。
しかし不親切だから自由なんです。選べるんです。あなたが選ぶんです。いろいろな方法から。あなたの人生なので。あなたの生き方なので。人のことまで面倒見切れんのです。知らんのです。責任はとれません。提案するまで。選択肢を示すまで。選ぶのはあなた。あなたの選択、あなたの決定。
自由とはそういうこと。どれを選んでもいい。ただ、自分に向いた方法がよろしかろうと思います。そしてどれが向いているか試す必要はあるかと思います。そういう中でそれぞれのスタイルが生まれる。ござ先輩の熱い姿勢も、オレのぬるい姿勢も自由であるからこそ生まれたものでして。どれだっていいんです。好きに決めて下さい。
というわけでオチもなく終わります。不親切な記事を全うします。ご清聴ありがとうございました。