(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

「対案を出せ」は質問返し

批判の仕方にもよるけど、そもそも対案を出す必要がないことが多いです。

特に「○○が悪い」という指摘のケース。この場合、対案は必要ないんです。他の方法、代わりの方法を提示する必要がない。

悪い理由を論証できればいい

こういうことなんですよ。「○○が悪い」という主張をした場合、その裏づけを説明できれば、話の流れとして十分なんです。悪いということを論理と証拠で明らかにすれば十分なのです。主張に対する立証責任は十分に果たせているわけなんですよ。「悪い」と言った。なのでその理由を示した。これでいいわけなんですね。それ以上の部分はサービスでやってもいいけど、やらなくてもいいんです。主張とは別の話なのでね。
で、ここに別に対案をどうするかとか、代替案はあるのかって議論は必要ないし、なくても問題なく成立する話なんですね。「じゃ、他にどうするの?」「方法はあるの?」なんて話は関係ないんです。本論は「悪いの? どうなの?」なわけで。ここだけでいい。シンプルに考えればね。
ところが、批判すると対案を求められてしまう。特に批判された側から。これって実は妙な話なんです。「○○が悪い」という主張と対になるのは、「○○は本当に悪いのか?」という問いなわけですよ。「○○が悪い」ということになれば、批判したヤツの主張は正しいし、「○○は悪くない」となれば、批判したヤツの主張は間違っていると。そういうこと。

対案=建設的?

どうもこういう勘違いがあるのよね。今ある方法がダメだと。ダメであれば他の方法を示す。もっと良い方法を示す。これが建設的とされているんだけど、じゃ、現状批判は建設的じゃないかと言うと、そんなことはないのよね。何故なら、ある方法が間違っているということに気付くのも、立派な進歩だから。ある方法が良い、優れている。これに気付くのも進歩だけど、間違いに気付くことも新発見。

  • A < B

一般的にはこういう話なのよ。方法Aより優れた方法Bを示せと。

  • A = ×

しかしこれでもいいわけね。Aという方法はダメであると。もちろん次の段階として、Aより優れた方法Bを見つける必要があるけど、Aがダメとわかるだけでも一歩前進。

  1. Aがダメな方法と気付く
  2. Aより優れたBを見つける

この2段階を一気に進むか、一歩ずつ進むか。この違いでしかないわけで。ある建物があって、そこの土地を有効活用しようという話になったときに、とりあえず更地にしようという話か、更地にした後に一気に建物まで建ててしまおうかって違いなわけです。

現状批判も建設的

なので、本来は対案がない現状批判だって有益だし、一歩前進という意味では建設的なんです。ダメなものはダメとまず気付いておこうと。とりあえず更地にしようと。それはそれでひとつの方法なわけです。「建設的」という意味では、「建物をどうするか?」という部分に踏み込めない以上、完璧ではないものの、「今の建物はどうか?」という答えを出し、更地にするかどうかの結論を得ることができるわけで、とりあえずは前進であることに間違いはないんです。
ですので、こういうケースで対案に応じる必要はありません。

こうしてみると、対案出せって言う側のリスクが低いですね。

「批判するなら対案を出せ!」 - novtan別館

低いどころじゃないです。「悪いかどうか」の話を「他の方法を出せ」に話を切り替える、巧妙な戦術なんです。論点が違うんです。他の方法の検討は、現状の方法が悪いかどうかという論点が片付いてからでいいんです。

「何歳?」「いくつに見える?」

まあ、こういう話に近いところでありまして。質問返しなんですよ。悪いと言われた側の。質問返しという意識もなく、皆さん繰り出してますけども。自分が相手を批判したとして「対案を出せ」と言われたら、「対案を示す前に、まずは批判に答えろ」でいいんです。話を多方向に広げるから、わけわからんことになる。ひとつひとつ片付けていくのも方法であります。

「対案を出せ」は質問返しであり、攻守を入れ替える魔法の言葉である。

こう考えるとよろしかろうと思います。相手の術中に乗っちゃダメ。よく野党が与党に引っかかっているのを、テレビでウオッチできますので、生温かくそういう現場を見るのもよろしいかと存じます。