(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

退くべきか退かざるべきか

物事には両面の考え方があるわけで、どちらか一方だけが正しいわけではない。なので考えてもしゃあないし、正しい答えなんてないわけだけど、しかしそれにしたってついつい考えてしまうことがある。

若い人とどこまで付き合えばいいか?

若い人には若い人の付き合いがあり、年配の方には年配の方の付き合いがある。自分は32歳なので、真ん中というか、微妙な立ち位置なわけだけども、時折どうすればいいか迷うことがあるのだ。

「若い人だけで飲みたいだろうから」

私の恩師はこう言う。こう言って席を外す。本当は朝まで学生と騒ぎたいのに、学生だけで騒ぎたいだろうからと学生だけにさせる。本音を隠す。本音よりも気遣いを優先させる。気遣うことで遠慮の行動をとる。

「たまにはオジサンと話すのもいいだろう?」

別の恩師はこう言う。こう言って積極的に参加する。朝まで騒ぎたい。学生と話したい。だから一緒に過ごす。本音そのままの行動をとる。本音を実践する。形にかえる。
このどちらが正しいかなんてのはわからない。相手にもよるし、本人のキャラクターにもよるし、TPOもある。相手となる若い人の立場で言えば、本当に若いのだけで飲みたい人もいるし、もっと経験者の話を聞きたいと思う人もいる。「来んなよ」と「来てよ」があるし、来て欲しい人と来て欲しくない人の両者がいる。

若い人の場に年配がほいほい出て行くのはみっともない

こういう価値観を聞く。

若い人の場に年配が出て行くのはステキだ

こういう価値観も聞く。恐らく両方とも正しいし、両方とも間違いになることもある。正解でも不正解でもなくて、正解にも不正解にもなりうるというのが実際のところ。

もちろんそこで「社交辞令の効かない会」の出番なわけだけども、本当はこういう会の出番以前に、ナチュラルに振舞えればいいなあと思う。いちいち空気を読む以前に、空いた隙間にスッと入り込むかのように参加し、隙間のないときには参加しない。そういう自然な振る舞いができればなあと思う。
結局「社交辞令の効かない会」は、何だかんだで社交辞令であるとか、空気があることを意識してしまった人間の会。一度意識してしまった人間は、無意識に戻れない。無意識に戻れないので、「みっともない」と「ステキ」という正反対の価値観に拘泥してしまう。「自重はダークサイド」だが、それはライトサイドやダークサイドの存在を知ってしまったから思う話で、そもそも光も闇もなければ、そういう発想もしないわけだ。片側を認識することで、その反対側の概念まで認識してしまう。
とはいえ、それじゃキリがないので「気にしてもしょうがないことにする」という形にする。自分で落としどころをつくって、何となく納得させる。それが「社交辞令の効かない会」の活動。意識してしまった以上は無意識に戻れない。なので「意識的に」なかったことにする。無意識にはできないので、意識して無意識に近づけるわけだ。
なので若い人とどうするかという話も、時折結構考える。考えるが、どっちみち答えが出ないので、気にしないことにするを繰り返す。考えてもしょうがないという結論ばかり導く。「さすがにこういうときは」とか「こういう振る舞いは」みたいなTPOの学習は進むけども、これとて答えにはならない。
考えるのがめんどくさいと言っても、意識してしまった以上、まったくの無神経になるのも嫌だし、とはいえ「同じ年代で飲むのが最高だ」と居直るのもアレだし、「お前ら先輩を敬え」みたいなオレ節をかますのもどうかと思う。結局は程々の気遣いと、他の年代に対する尊敬の念とかが必要なんだが、そのバランスはどうにもこうにも難しい。
恩師を見ていて、そのバランスの難しさを日々感じる。行き着く先は自分に適した人間関係。自分に合った、そして人に許される限度内の関係構築。
新たな付き合いが増えるこの時期にこそ、既に意識してしまった人間としてまた少し考えておきたい。……そしてまた考えるのをやめるのだけれど。