(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

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論理とは話のルールである

せっかくなので、論理についての話を続けます。

論……論理(Logic:ロジック)話が正しいという筋道

実生活でも使えるディベートテクニック - (旧姓)タケルンバ卿日記

以前に書いたように、論理とは筋道。ある主張をする上での考え方の順序であり、ルール。
例えば「日本の人口は多い」という主張をした場合に、その証拠として「日本の人口は1億人以上いる」をあげたと。この場合「1億人」という数字を「人口が多い」という基準点にしたわけです。ルールを設定した。
このルール下では、日本以外の人口が1億人以上いる国もまた、人口が多い国となります。「1億人以上」という基準点で線引きをしたわけですから、その対象が日本であろうがなかろうが、基準点を超えていれば人口が多い国となる。
ですから、このルールを設定した以上は「日本の人口は多いが、メキシコは少ない」とは言えない。

1.人口
1億420万人

メキシコ基礎データ | 外務省

1億人のラインは超えているから。
しかしここで「日本よりも人口が少ないから、メキシコは人口が少ない」と言ってしまうと、論理が破綻してしまう。事前に設定したルールを破る行為だから。「1億人以上いるかどうか」を基準にしたはずなのに、その基準を「日本の人口より多いかどうか」に変更してしまう。話の筋道が違うのです。それだと最初にした話が通らなくなる。
人口が多いか少ないかを人口密度の話にすり替えるのも同様です。ロシアは日本よりも人口が多いが、国土が広く、人口密度が低い。だから日本の方が人口が多い。これもまたあらかじめ設定した主張のルールを変更しているため、通らない話です。「何をもって人口を多いとするか」というルールが違う。
ですので、「日本の人口が多いかどうか」の話をするときに、「1億人以上」という基準を設けた以上は、メキシコだろうがロシアだろうが、「1億人以上」という一点をもって「人口の多い国」として認めるのが論理的な考え方。自分がルールを提示した以上、そのルールをクリアしたものは是とする。
ところが、世の中には論理を都合よく使いたい人が多いわけです。意図的にルール破りをする。

昨日書いたゲーム規制に関する話が典型。規制の根拠は少年犯罪であるのに、少年犯罪にこれといった悪化材料がなくても、ゲーム規制の話は取り下げない。治安の悪化が理由であれば、治安が悪くなっていない以上、規制をかける理由がない。それが主張のルールであるのに、規制をかけるという結論は変らない。
あまつさえ少年犯罪の対象が量から質となり、質から個別の話になる。話のルールがころころ変わる。話が成立しなくなるとルールが変わる。
ここには科学的な思考や、知の蓄積や、客観性が入り込む余地がない。ルールが変わる即ち話の前提が変わることなわけで、継続的な話ができない。
少年犯罪の量とか質ならば、犯罪件数とか、凶悪犯罪の率が論拠になりうるし、誰しもが知りうる客観的なデータ足りうるけども、「レインボーブリッジをあれこれ」みたいな個別の話を出されると、「どれが問題でしょう」クイズになってしまって、理性的なやりとりができない。
ある論証を行った場合に、主張に反する事例があったとしても、自らの主張にそったものであれば、それを認めるのが科学的なやりとりというもの。「少年犯罪が増えているから、ゲームを規制しましょう」という主張は、「少年犯罪が増えていない」という証明がなされた場合、撤回されなければならない。証拠が正しいかによって、結論の正しさもまた変わるのだから、新たな証拠によって仮説が否定されたらば、結論もまた否定され、正しい証拠に基づいた結論が再提示されるのが科学的なやりとりというもの。
ところが、結論を変えず、論理を変えるということは、もともと論理はどうでもよくて、結論を変えるつもりがないだけ。結論部を言いたいがために、論理とか証拠をつまみ食いしている。やりたいことを押し通すために正当化しているだけ。
話のルールをころころ変える人は、論理的な思考ができず、固まった結論から抜け出せないタイプが多いです。それでいて、論理的に見えるような形を整えることにはこだわるという不思議な生き物です。
一見頭が良さそうにみえますが、単に頑迷なだけです。こうした人と議論するのは時間の無駄です。
本当に論理的な人は、証拠が否定された場合に、その証拠に基づいた主張を撤回できる勇気を持った人です。この勇気を臆病とは思わないように。そして頑迷を力強さと勘違いしないように。