(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

ぼくのかんがえた正しいさんすう

まったくもって意味がわからない。

8人にペンをあげます。1人に6本ずつあげるには、ぜんぶで何本いるでしょうか。

6×8は正解でも8×6はバッテン?あるいは算数のガラパゴス性:プロジェクトマジック:オルタナティブ・ブログ

ごくごく一般的なかけ算の設問。が、どうしてこうなるかね。

「8×6」だとバッテンで、「6×8」だと正解らしい。何じゃこりゃ。僕がテストを受けたとしても「8×6」と書く。だって問題文はその順番に書いてあるから。
さらに答の48本もバツ。丁寧に赤ペンで48本と直してくれている。さらに意味不明。

6×8は正解でも8×6はバッテン?あるいは算数のガラパゴス性:プロジェクトマジック:オルタナティブ・ブログ

ホワイ?
そういや、1年前にもこんな記事を書いてた。

このときは、さすがにあっている答えは間違いにはしてない。で、今回は答えも間違い。この娘さんが書いた「48本」は間違いで、正しいのは「48本」であると。
……ううむ、わからん。まったくわからん。どういうことなの? 教えてえらい人!
つか、あれだな。この先生の答えの正しさというのは、ひとりよがりの正しさなんだろうな。ある設問があって、ある答えがある。この答えを出すときに、正しい式から答えを導こうが、式もなしにヤマカンで答えも導こうが、答えがあっていれば本来は「正しい」なんだよね。根拠があろうがなかろうが、適当であろうとなかろうと、答えがあっていればそれは正しい。
難があるとすれば再現性の部分で、適当に答えを導いたわけだから、正しい答えを毎回導く保証なんてどこにもないわけで、その点においては教育上考慮しなければならない面はあるだろうけど、それはあくまで教育上の配慮の問題で、「正しい」という事実は揺るがない。
今回の例で言えば、8人に6本ずつペンを持たせる、つまり「8×6」という式を根拠に「48本」という答えを導こうが、「だいたいこんなもんでしょ」と適当に「48本」という数字を出そうが、合っていることには間違いない。その理由が「好きな数なので」とかでも一緒。「48本」という数字を導いていれば、その答えは正しい。
過去記事でも書いたけど、結論の正しさは、話の筋道の正しさと一致するとは限らない。筋道が間違っても結論が合っていることもある。逆に筋道が正しくても結論が異なることもあるくらいで。話の筋道はデタラメでも正しい結論を導くこともある。
で、ことテストで式の正しさとは、論理という筋道の正しさで、答えが合っていようと間違っていようと、筋道が正しいかどうかとは別の話。同様に答えの正しさとは、証拠という結果の正しさで、筋道が正しいかどうかとは別の話。つまりかけ算の前後のような順序が正しかろうと間違っていようと、「48本」であれば「○」をつけなきゃいかん話だと思うわけだな。
しかしながら、今回は「×」であると。

「式が間違ってたら(逆に書いたら、という意味)、答えもバツにするぞー」
って先生に言われた。

6×8は正解でも8×6はバッテン?あるいは算数のガラパゴス性:プロジェクトマジック:オルタナティブ・ブログ

数値としては合っていても、式が間違っているから答えも間違っていると。
もうこうなってくると「ぼくのかんがえた正しいさんすう」の世界だな。数字によって正しい答えを導き出す学問としての算数、算術、数学ではなくて、先生の頭の中予想ゲームというか。
本来こうした学問ってのは、計算式などを使い、論理的に答えを導き出す方法を学ぶことで、ある意味、ひとつの証拠から、その証拠を導く論理を考える能力まで育むものだと俺は思っているのだけれど、そういう面を否定しかねない大胆な先生がいるんだなあと新鮮な驚きを得たのでありました。
まあでも現在はこういう先生は少数派で、こうしてネタにもなるわけだけど、そのうち本当に笑えなくなるのかもなあ。ダウンタウンが若手の頃に、「さて、どうでしょう」という定番の漫才ネタがあったんだけどさ。


出題者の頭の中とか、前提を読み取るのも回答者の技のうちに入るのかねえ。小学生も大変だな。頭のかたい大人の面倒まで見させられるとは。