(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

議論の前提をつくったからこそ橋下市長は議論に強い

橋下大阪市長は何故議論が強いのか。と同時に、何故相手が弱く見えるのか。
一言で説明すればこれ。

反論者に対案が必要になっているから

橋下市長のプランに反対するのであれば、対案を用意しなくてはならない。
橋下市長の改革案が嫌なら、もっと良い改革案を提示しなくてはならない。
そのために反論が難しい。議論に臨むものに、ある意味で橋下市長以上の準備を必要にさせる。橋下市長が議論に強いのは、対案を用意するという相手の準備が足りないためで、相手が準備不足な分、強く見える。

本来は対案を出す必要がない

しかしながら、本当はあるものに反対する場合、反対者は本来対案を用意する必要はないんです。

以前に書きましたけど、「対案を出せ」は質問返しの技で、それに応じる必要は必ずしもなくて、現状を批判するだけでも通用する。対案が必要なケースが議論の場では特殊で、現状が悪い場合は現状を批判するだけでいいわけだし、ある改革について反対する場合は、その改革の悪いところを提示するだけでいい。
けれど、こと対橋下市長の場でそれが通用しないのは、これまでの選挙結果や、これまで公になった事実やデータによって前提がつくられたから。

大阪は変わらねばならない

今の大阪には悪いところがある。悪いところがあるから改革の必要がある。これが前提。
そのために現状維持の選択がない。「変えない」という選択がない。
橋下市長の改革に反対という場合、通常は現状維持を選択できる。「このままでいい」と。だから対案が必要なくて、一方的に橋下市長を批判するだけでよかった。反対側の反証は必要なかった。
ところが、現状維持の選択肢がないために、橋下市長の改革に反対ならば、具体的にどう変えればいいのかの対案が必要になっている。
「じゃあどうすればいいんですか?」
「どう変えるんですか?」
「このままでいいんですか?」
対案がなければこの三点セット。

前提をつくる

議論では前提をつくったものが強い。前提というのは土俵で、基本的にはその土俵の中で押し合いへし合う。前提とは議論の幅でありルール。
本来議論の場では、その前提に乗るかどうか、共有するかどうかから戦いがはじまっている。いや、自分はこの前提だと。あなたの前提はおかしいと、前提から争うこともあるし、お互いがお互いの前提のもと話を進めることだってある。
大阪の場合であれば改革の必要はないと。変える必要はないという前提で話をすることも本来は可能だった。
橋下市長が巧みなのは、その前提レベルの争いを完全に封じていること。あらゆるメディアを通じて、大阪に問題があることを明らかにした。大阪を変えねばならないということを前提にしてしまった。
これによって現状維持を前提にした主張ができなくなり、反対者に対案が必要になった。反対者にも説明責任が要求される。橋下市長に反対する者は、橋下市長がつくった土俵で争わなくてはならない。

反対側は五分と五分の戦いであると思っているか

先日の「朝まで生テレビ」で思ったのは、「橋下市長の土俵で戦う自覚があるか?」ということ。出演者にその自覚が欠けているように思えた。
橋下市長に反対する際に対案が求められるということは、事実上、橋下市長との論戦は1対1、五分と五分との戦いで、政治的な戦いであるということ。橋下徹がやろうとしていることが正しいか、その反対者である某のやり方が正しいかの戦い。
橋下市長がデータを用いるなら、データを用いて覆さなくてはならない。
橋下市長が論理を用いるなら、論理を用いて覆さなくてはならない。
相手が持ちだしたものを否定した上で、相手の上を行くアイディアを出せるか。相手より良いものを提示できるか。この戦いであったはずなのに、最初から「お話を聞かせていただきます」ではそもそも戦いにならないし、戦いであるという認識すらないような感じでもあり。これでは厳しい。
論戦を挑むなら同じ目線が最低限必要だし、本当なら「お前の改革案はダメだから、俺の改革案を教えてあげよう」くらいの強烈な上から目線があってもいい。

しばらくは論戦を挑まないほうがいい

しかも今後つらいのは、橋下市長は市長として内部からデータをとることができる。「大阪を変えねばならない」の前提を固めるデータはますます出てくるだろうし、橋下改革の整合性を高めるデータも簡単につくれる。大阪市という組織をシンクタンクにできる強み。これは有利。
彼と論戦を挑むなら、よっぽどの準備がないとダメで、軽い気持ちでなんとかなると思って臨むとひどい有様になる。何かしらの武器がないと当面厳しい。
ただ、「当面」と書いたのは、次第に橋下改革の実現性の問題が出てくるから。今はまだはじまったばかりだからケチつけようがないが、そのうちこれができない、あれができないというものが少なからず出てくる。やがては「変えなくても良かったのでは……」みたいな実効性の問題も。
そうなってくると「大阪を変えねばならない」の前提が揺らいでくるし、前提が揺らいでくれば一方的な批判や言い逃げも解禁される。五分五分の戦いができない反対者は静かにそのときを待つほうが懸命かと存じます。
まあでも本当は橋下市長に五分五分で論戦を挑める人が出てくればおもしろいんだけどね。彼より若くて、彼より上から目線で。小泉進次郎氏なんかおもしろそうなんだけどな。……やらんだろな。