(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

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被災地の今を訪ねる (4)

被災地の今を訪ねる (3) - (旧姓)タケルンバ卿日記 より続きです。
南相馬の萱浜を出て、一旦昼食をとり、常磐線がどうなっているか確認に向かった。
現在、JR常磐線は広野から原ノ町福島原発の事故影響で不通になっており、同様に相馬から亘理までが津波の影響で不通になっている。
磐城太田駅より少し南に下ったところに、地元の人しかいかない社(やしろ)がある。そこは観光客向けの場所ではないため特に道路がなく、線路に登る階段がただひとつだけあり、線路を歩いて渡って行くのが常だった。
もちろん電車が走っている場所なので、「子どもだけで行くんじゃないよ」とよく注意された記憶がある。


地震以来電車が通っていないため、草が線路を覆い尽くしていた。微かに見える錆びた線路と、電線があるのみ。

近くの磐城太田駅にも寄ってみた。ここは特急が止まらないため、無人駅となっており、ただでさえ寂しい場所ではあったが、不通になったことで荒涼としていた。


人の手が入らない線路、駅ってどうしてこんなに物悲しいんだろう。
南相馬から南に出る鉄道ルートは完全に閉ざされていた。
続いて原町火力発電所に向かった。海沿いにある発電所で、こちらも津波で大きな被害を受けた。

南相馬に限らず、沿岸部にはこうした光景が当たり前のように残っていた。


壊れた水門、取水口。用水路などをつたって津波は陸を襲い、これまで津波被害が記録されていなかった場所まで猛威を振るい、なぎ倒し、運び去っていった。
瓦礫の処理はやっと一段落ついたが、これからはこうしたものを直さないといけない。
津波でえぐられた場所はもろくなっており、崩れる可能性がある。
波をかぶった森林は枯れているため、その下は地すべりが起きやすい。
沿岸部の水門などの施設は壊れているため、水害に対する備えが弱くなっている。
津波による土砂の流出の影響で海も川も浅くなっており、これまた水害に対して弱くなっている。
これは南相馬だけの問題ではなくて、被災地全体で見られる問題点のようだった。単純な直線距離にして300km以上の沿岸地域が、同じ防災上の難点を今もなお抱えているというのは、正直言って驚きであるし、如何に現地の状況が被災地以外に伝わっていないかという証拠にも思えた。
この後も沿岸部を車で走る。原ノ町から相馬の既に復旧した区間を挟み、未だ不通状態の地域に出た。

被災地を行くと、こうした建物の基礎をたくさん見かける。ここには建物があり、そこには生活もあった。しかし今はそれもなく、再び建てなおされる気配もない。
カーナビの画面を見ると松元駅のある場所のようだった。


画面が指し示す方向を見ると、微かにその名残りはあった。鬱蒼と生える草むらをかき分け歩く。


ここは確かに駅があった場所だった。駅舎は残っていないが、ホームが残っている。

何故かトイレの建物が残っていた。比較的新しく、コンクリートの堅牢なつくりのために、津波に耐えたのだろうか。

駅舎はないものの、まだ線路もあったし、

ここが駅ホームの中心であるという表示も残っていた。

ホームから先の線路はすっかり撤去されていた。そのうちこのホームも壊され、撤去されるのだろう。

ホームの高さから周りを見ると、枯れた草木が目立つ。津波が来た場所の草木は今も枯れ、茶色が目立つ。津波が来ていない場所は緑が生えている。色の違いは残酷で、視覚的にどうしてもわかってしまう。あちこちに未だ海水が残り、足元はぬかるんでいる。
その先の浜吉田駅に出ると、来年春に亘理間の復旧が完了するとの知らせが出ていた。

浜吉田より南の地域も、線路を山側に移設し、運転再開することになったようだ。2014年中の工事着手を目指しているらしい。
仙台から少しずつ復興の灯火は南下している。南相馬から仙台に出る北ルートの復旧の見通しは立ってきた。しかしながら、南相馬からいわきや水戸方面に出る南ルートは、福島原発事故のために復旧の見通しが立たず、状況は遅々として改善されていない。
「今まで浜通りはいわきに頼ってきたし、その先の水戸、そして上野という経済圏で活動してきた面があるが、これからはもう仙台だ。北に行くしかない。南に行く経路は諦めた」
今もなお南相馬に住む知り合いはこう言った。南に出る時代は終わり、北に出る時代になったのだと。
(つづく)