(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

賛成意見を集めても賛成意見は正しくならない

ある主張をするときに、自らの主張の正当性の論拠を求めるのは自然なことで、こういう姿勢自体は咎められることではないし、自分もやっていることなのであまり悪くは言えない。

本件に関して、新聞や週刊誌の記者から、コメントや背景事情説明を求める電話やメールが届いたが、質問を聞いて強い違和感を持った。
質問が、「アルジェリア人質事件に関する日本政府の対応のどこが問題ですか」というものだからだ。安倍政権、もしくは外務省の対応に瑕疵(かし)があるという前提で取材を進めている。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/623705/

恐らく「外務省の対応に瑕疵がある」という記事を書きたいんでしょう。そのために「瑕疵がある」と言わせたい。「瑕疵があった」と言わせたい。そしてそれを論拠としたい。
こういう自説を強化する上での論拠探しというのは、ディベートでもよくあることで、特段珍しいことではない。ある論題に自分が賛成側であれば賛成意見を探すし、反対側であるなら反対意見を探す。そして賛成側であれば賛成意見を強調し、反対側であれば反対意見を強調する。同時にそれは反する意見を黙殺するということに近く、意図的に存在を隠すこともある。もちろんディベートだから、相手方にその意見を用いて突っ込まれることを想定し、相手方意見を無力化する方策を考える。
しかし、こういう賛成意見・反対意見を都合よく集めるだけではダメということも、慣れたディベーターならよくわかっている。結局のところ、人の発言というのはその正しさが実証されない。誰が賛成しようが反対しようが、論点が対立するものに関しての人の意見は、客観的な正当性を保証しない。
こういう論拠を「発言エビ」とか言う。「人の発言のエビデンス」ということなわけだけれど、これは「私は賛成します」「彼も賛成しています」というだけに過ぎない。「賛成の立場の人間を一人ご紹介しました」というだけの価値しかない。書籍の帯によくある推薦コメントのレベルなわけです。誰が推薦したって、その書籍が本当におもしろいかどうかの保証はないでしょう?
しかしながら肩書きとか名声とか、その人物のキャラクターによって「彼の推薦ならおもしろいんじゃないか?」と思わせる力はあるわけです。外交的な話において佐藤優氏のコメントを取りに行くのはまさにそういう狙いで、実際に彼の意見が正しいかどうかの保証はないんだけれど、「彼の言うことなら正しいだろう」と思う人がいるから、彼のコメントは重要なわけです。「専門家は正しいことを言うはず」という前提を使っているわけですね。
しかしながら繰り返しになりますけど、佐藤優氏の意見にしたって正しさを保証しないし、そこらへんの一般の人をつかまえて意見を聞いたって偶然真実を述べていることもある。コメントを得る相手によって正しいであろうという蓋然性の部分は上がるけども、それにしたって蓋然性なわけです。最終的には白と黒。五分と五分。当たるも八卦、当たらぬも八卦
ディベートなどで重要なのは、実は次の一歩で、「しかもこういう正しい証拠があります」という部分。「私は賛成します」「彼も賛成しています」「しかもこういう証拠もあります」という流れになってはじめて効果がある。発言エビそれ自体には正しいかどうかの証明がないので、正しさを担保する証拠とセットになって威力を発揮する。客観的な数字、検証、事例。これがないと正しさは伝わらない。
発言エビをいくら集めても、それは主張の数を集めただけに過ぎず、質は高まらない。主張の質を高めるには、最終的には内容で、その内容とは「誰が言いました」「彼が言いました」ではなく、「実際にこうなっています」という客観的なデータなんだというディベートの基本を思い起こしたわけであります。
そういう客観的なデータが見つからないから、発言エビでお茶を濁す気持ちは痛いほどわかるけども。