(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

だからこそディベートをやればいいのでは

ダメなディベートを前提にしたら、そりゃそうなるような。

きちんと教えなければ。きちんと身につかない。ダメな教え方をすれば、ダメな身につき方をするというだけで。
日本人がどうとか、日本語の仕組みがどうとか、歴史的な経緯とか。それは果たして「日本人は自己主張が苦手である」という前提になるかどうか。また「日本人にはディベートは向いていない」という結論に結びつくだろうか。こういう出発点から疑問に思うわけであります。
そもそも「自己主張が苦手」という話は、「誰と比べて?」という点から話が微妙。欧米? で、欧米のどこよ。
それに自己主張というのはいろんな方法があると思うわけです。直接的な主張だけではなく、間接的な主張。声高に主張する方法もあれば、無言で主張する方法もある。仮に直接的な方法が苦手であるとしても、間接的な方法に長けていれば、それは「苦手」とは言わない。また、能力の絶対値が低くても、相対的に低くないのであれば、それまた「苦手」ではない。
そしてそれをコミュニケーションの仕方に結びつけるのも違和感を感じるのであります。

真っ向から対決の姿勢を取り、異なる意見の相手を論破したり説得したりすることに力点を置く欧米型コミュニケーションとは、スタイルが全く異なるということをまず認識する必要があります。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140624/267432/?rt=nocnt

これが正しいなら、むしろディベートによって傾聴力を身につける方が重要なのではないかと。

ディベートは聞く力を身につけるもの

多分ディベートについての前提理解が違うと思うんです。皆さん「話す力」が重要だと思っている。演説力を身につけるものだと思っている。外に対して主張する攻撃的な姿勢こそディベートであると。
ところが、やってみるとわかることですが、実際は「聞く力」が大事なのです。話を聞かなければ返答できない。質問を把握し、答えるべき内容を理解しなければディベートは成り立たない。
例えば「焼肉はうまいんですか?」と聞かれる。この場合、味について聞かれている。なので味について答えるべき。ここで値段の話を持ち込むと、答えたことにならない。質問の趣旨と違うから。「うまいの?」と聞かれて「安くてお得だよ!」と答えても意味がない。
また、相手に質問する場合も同様で、相手が何を主張しているのかを理解しないと、良い質問はできない。味が良いと言っているのか。値段が得だと言っているのか。何と比べて? 誰が? どのように? そういった話を背景を理解してこその質問。
基本的にディベートは、交互に主張を交わすルールになっているので*1、聞く力がない人は、効果的な主張や質問ができない。「話す力」が生きない。

ところが若い世代ではある意味そういうことを否定する訓練を受けてきているため、自分の立場や自分の本音を一方的に主張するというコミュニケーション形態が増えてきた。これがいろいろなところで摩擦を生み、昨今の殺伐とした社会状況を作り出していると言えます。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140624/267432/?rt=nocnt

この部分は現実のところ逆で、主張に物申すためには相手の主張を聞かなければならない。「一方的に主張する」というコミュニケーション形態は、ディベートと矛盾する。ディベートではルールによって発言の回数、機会が保証される。「一方的な主張」というものがありえない。
それにディベートの場合、本当は「論破」って変な話なんですよ。普通はお互い論破される。何故かと言うと、一方的にどちらかが正しい論点は、そもそもディベートに向かない。ある拮抗している論点があって、賛成・反対どちらにもメリットとデメリットがある。これがディベートというゲームが成立する前提で、どちらかが一方的に強い論題であれば、そもそもディベートする意味がない。立場を決めた段階で勝敗が決まってしまう。
なので、自然と相手方の主張に対して理解するし、尊重するわけなんです。自分たちの主張に正しさがあるように、相手方の主張も正しいから。どちらかが一方的に正しく、どちらかが一方的に間違いということは、ディベートではない。もしそういうことになってしまっていたら、それはもうゲームになっていないわけですよ。試合にならない。

ディベートなんてスキルの1つですから、必要が生じた時に練習すれば身に付きます。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140624/267432/?rt=nocnt

これも妙な話。相手の話を聞く姿勢であるとか、そういうコミュニケーション形態を尊重する心構えとかは、急ごしらえで身につくものではなくて、そういう文化的土壌であったり、長年の経験、そして早め早めの教育の効果じゃないのかね。それができていないから「自分の立場や自分の本音を一方的に主張するというコミュニケーション形態が増えてきた」わけでしょう。もしそれがここ数年の出来事で、ディベート教育の結果だと言うなら、私なんてもっとディベートで食えてるはずであります。……それ、ディベート教育の成果じゃないよね。殺伐とした社会状況をつくるディベート、凄くね?

物言えば唇寒し秋の風

日本で直接的な主張があまり尊ばれないのは、「物言えば唇寒し秋の風」という言葉に代表されるように、直接的な主張をすることで損をする。「出る杭は打たれる」という言葉があるように目立つと損をする。あるいは主張と人格の切り分けが論戦の場でできない人が多いため、政治的な主張の場面でも人格攻撃が横行する(都議会のヤジ問題がいい例)。そしてそもそも話を聞いてくれない。自分の話を言うだけ。他の人の話は聞かない。
こういう点が問題であるというなら、むしろディベートにどんどん取り組んでいただいて、直接的な主張をするにしても、論理的な思考や、効果的な論拠の使い方が必要であるということ。どんな主張にもメリットとデメリットがあり、TPOによってその価値は変わるということ。ある主張の価値判断においては、人格よりも内容で争うべきであるということ。自分が主張するためには、相手の主張をよく聞くこと。こういったことを学んでいただければと思うわけであります。
私からは以上であります。

*1:ディベートにもいろいろなルールがあるので、一概には言えないけど、概ねそういうこと。