(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

できることが増えると自由がなくなるというパラドックス

どうも、相変わらず自由を楽しんでいるタケルンバです。

これを読んで思ったこと。

ネット人口の増加による反応増加

昔よりネットに関わる人が増えているわけで、反応自体増えますわね。

母数増加によるレア反応の現実化

ネット人口が増えれば、それまであまり見えてこなかった「アレ」な反応が増える。確率0.00001%でも、それ相応の母数になれば、それが現実として起きる。

レア反応の増加を受けての過剰反応

そうした反応を受けて嫌になってしまうのはわからんでもない。が、割合は少数。少数に全体を見てしまっているのではないか。

そもそもそれって自由なの?

「勝手にやっちゃってた疑惑」もある。自由と思い込んでいただけとか。

観測範囲の固定化による弊害

自分が見ているネット世界が固定化し、それによる弊害があるんじゃなかろか。高齢化とか。

自分が自由にできていないことを、全体のせいにしてないか?

あるいはこれ。理由探し。
個人的にはブログ世界は相変わらず自由だと思う。不自由さを感じない。それは多分、自分自身が自由に使っているから。不自由な使い方をしていないから。
「昔が良かった」とはちっとも思わない。今の方がいい。使えるツールやソフトも増えた。手間も減った。ブログで何かをするためのコストは下がる一方だと感じている。
その一方で、ブログで「良いもの」のハードルは上がり続けていて、文章力や編集力、画像の使い方、デザイン性、書き手のキャラクターとか個性とかの要求レベルは高くなり続けているとも思う。ブログでできることが増え、領域が広がった結果、「良いもの」を作るためのコストは上がっているという感触はある。
ファミコンの「良いゲーム」と、プレステ4の「良いゲーム」の違いといいますかね。最近のゲームはいろいろ作りこまないといかんから、開発費凄いかかるでしょ。昔のゲームはそのあたり安価に作れた。グラフィックなど、求められる要素も今より少ないし、求められるレベルも低かった。
しかしながら、今も昔も「良いゲーム」は「良いゲーム」だし、「クソゲー」は「クソゲー」だ。昔のゲームも楽しい。グラフィックは荒いし、システムにも穴があったが、それでも面白いゲームはあった。しかし今のゲームだって楽しい。グラフィックも良いし、操作性も良いし、大掛かりで、壮大で、データ量が大きいというのはそれだけで偉大。
ブログも同様に思う。できることが増えた。増えたからこそ、作り込み要素が増えた。それに合わせて「何これ、映画なの?」的なムービー盛り盛りの最新ゲームを作るのも自由、あえてそれを放棄してアクション性一発のレトロゲームにこだわるのも自由。完璧を目指さなくてもいいじゃないか。キャラ一発で勝負してもいい、ネタ一発で勝負してもいい。あるいはそもそも勝負なんてしなくてもいい。
できることが増えた今こそ、自由であり続けるために選択する自由を確保することが大事なんじゃないかなあ。何をしてもいいんだぜ、ブログは。そもそもやっちゃいけないことは、今も昔も変わらずダメだけとね。
以上、はじめて買ったゲーム機はドットの存在感がありすぎのカセットビジョンというタケルンバがお届けしました。昭和も平成も素敵やん。