(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

自由と責任

タケルンバ自由主義者である」と常日頃から言っているけども、どうも勘違いしている人がいるので、ここで書いときたいことがある。それは「自由主義者=無責任」じゃねえってこと。自由と責任は対であるように、自由主義者には自由を謳歌するための責任があるんですよ、奥さん。

自由主義=自由責任主義

これ。こういうことですよ。自由主義って実際は自由責任主義なんですよ。最低限の責任があるから自由なんです。責任を果たしている人間だけ「ほっといてくれ」と言えるのですよ。
自由主義者は思想・信条・主義・主張・宗教その他一切に関して自由でいたいのです。あらゆることはオレの勝手であり、ほっといてくれと。ただ、自分がそうありたい以上は、他人に対してもその自由を守ってやらねばならない。他人の干渉を受けたくないのだから、他人に干渉しちゃならんのです。前にも書きましたが「他人の自由を否定するものは、自ら自由を受けるに値しない」わけです。決して自分勝手じゃないのよ。

自由主義≠経済至上主義

ここも勘違いされるところ。自由がいいからって経済市場主義とか拝金主義とかいうわけじゃないです。もちろんお金があった方がいいし、経済的に恵まれている方がいいに決まってますが、オレのような自由主義者はお金を自由であるためのツール、道具としてとらえているわけですよ。お金があれば好きなものを食べることができる。お金があれば働かなくてもいい。こういう「選択肢の豊かさ=経済的豊かさ=自由」であるので、お金は必要だと割り切りながらも、あくまで手段であると思っておるのです。
結局自由主義の根本って「人それぞれだよね」というベッタベタな諦めなんですよ。「価値観ってみんな違うよね」と。で、みんな違うことを認めた上で、お互いの価値観に立ち入らないようにしようと。そういうことなんです。「それぞれの正しさの追求」なんです。
だから豊かさも人それぞれ違う。晴耕雨読が豊かさであれば、パーティー三昧・贅沢三昧も豊かさ。どっちが正しいという話ではなくて、人それぞれの中に答えがある。但し、お金がないことで本当に望む豊かさを追求することができない現実がある。それがための経済的豊かさの追求なわけですよ。お金がすべてじゃねえのです。
ついでに言うとオレは苗字とか家族観とか民族主義とか国家観とかにまったく興味がありません。それがどうだろうとオレはオレだし、オレを表す記号みたいなものに過ぎませんからねえ。結婚して奥さんの苗字になってもOKですし、どっかの国の人と結婚して国籍が変わっても困らんのはそういうこと。もちろんそういう価値観を大事にする人をクサす気持ちはありませんけどね。「そういう考え方もありますよね」でかわすのみ。自分と違う価値観を認めることができんから争いになる。右から左へ受け流せ!