(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

酷さを堪える心理

「Hのときは酷くされたい」
いわゆるMですね。酷くされるとうれしい。
ただ、酷くされたいだけの人っていうのもまた珍しいわけで。
「でも、いつもは優しくされたい」
こういう気持ちは当然あるはず。「ハレとケ」というか。「日常と非日常」の境目よね。いつもは優しく、そのときは酷くと。いつも優しいから酷さも受け入れることができるし、酷い仕打ちがうれしいと。いやあ、マニアですね。
ただ、相方がこういう人間の場合もありますわね。
「いつも酷い」
Hのときだけ酷いんじゃなくて、いつも酷い。優しい場面がない。DV男なんかこのタイプですね。暴力を振るう。虐待する。
この場合、大抵の人は、日常の酷さに堪えられなくて去っていく。そりゃそうだ。暴力振るわれてまで一緒におれん。非日常、つまり「日常ではない」瞬間のみの酷さなら堪えられるし、通常に比べて圧倒的に短い時間ならばこそアリにもなるけど、それが日常でいつものことになると、普通の人は耐性がない。
Hの場合は酷さを受け入れ、むしろ喜ぶ人であっても、それが日常ともなると問題が出てくる。

  • 日常 > 非日常

日常に重きをおく人であれば、非日常にメリットがある「酷さ」であっても、日常でのデメリットが上回るので、出てくる答えは当然「No」だわな。時間的にどっちが長いのよって話でもあるし。
でも堪えられる人もいるんだよね。

  • 日常 < 非日常

Hのときのうれしさが、日常のつらさを上回る。非日常の瞬間のために、日常を受け入れてしまう。そういう人も一定数いるんだよなあ。
だめんず」好きの女性心理って、こういうことなのかな。酷い仕打ちを受けても、つらいことがあっても、彼女たちは受け入れてしまう。俺みたいな凡人は、いつもやさしい人の方がいいが、非日常の酷さを味わいたいと思ってしまうM的な方の一部には、「そのためなら日常の酷さだって」と思えてしまうんだろうなあと。あまりにも酷いことをされるのが好きになってしまうと、いつも酷くされても堪えられてしまうのだなあと。
DVの相談を受けて、そんなこと考えてしまいました。道理じゃないんだよな、感情は。