(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

「ねば幻想」を捨てよう

「ねば幻想」なんだよね。「面白いことを書か“ねば”ならない」「良い記事を書か“ねば”ならない」「みんなに見てもらわ“ねば”ならない」「ネタを提供せ“ねば”ならない」などなど。そういうものはナシでやった方がいいと思うなあ。ブログとか日記とかは。

本当に重要なのは、ネタをどうやって処理するかどうかです。
そしてその処理の仕方にこそ、その人らしい文章が宿ると僕は信じています。
何が起こったかじゃなくて、何を思ったか。

http://d.hatena.ne.jp/tek_koc/20080313/1205368101

同感。何を思ったかが大事。ブログとか日記は出来事の記録でもいいけど、何を思ったかの感情記録でもいいと思うんだよね。ある出来事に対して、そのときの自分はどう思ったかという感情の自分史。そして自らの聖なる一回性の記録。

誰も過去の自分には戻れない。だから進むしかないし、できることはその都度その都度の自分を記録することくらい。
ブログとか日記はそういう方法として有効なんだろうね。変化し続ける、過去になり続ける自分史。全ては「聖なる一回性」。思い、感じることは全てそのとき限りのもの。一回限りの美学ですね。

聖なる一回性 - (旧姓)タケルンバ卿日記

こういうことなんではないですか?
また、無理にそういうもので人を楽しませようとするこたないんだよね。自分が楽しければいい。「人のために」の前に「自分のために」でもいいわけで。大体ブログとか日記の動機ってそんなもんじゃない? 「とりあえずやってみるか」とか「面白そうだ」とか。「人に読んでもらおう」で始めるわけじゃないでしょ。「オレの文章で楽しんでもらおう」とか。そこが目的って人はレアのはず。
もちろん「面白かったです」と言われたら嬉しい。「もっと楽しんでもらおう」という意欲も出る。これは立派なモチベーション。ただ、これは燃料であって、スピードの問題。目的地とかゴールを変えるものではないんだよね。「もっと書こう」になってもいいけど、「楽しんでもらえるものを書こう」になってしまうと、ゴールが変わってしまう。自分のために始めたのに、他人のためになってしまう。
これが「ねば幻想」の悪いところ。自分のためが人のために置き換わってしまう。自主的に始めたのに、義務感とか使命感で続けるようになる。その結果、自分がイメージするものが書けなくなり、いつしかやめてしまう。そういう負のサイクル、負の強迫観念。本当は最初からそんなのないし、求められてもいないんだけど、そういう風に自分の中で置き換わっちゃうんだよね。

あなたの意見はあなたしか発することはできない。何故ならあなたはこの世にたった1人しかいないから。

迷わず書けよ、書けばわかるさ - (旧姓)タケルンバ卿日記

こう割り切ればいいじゃない。良いものを書こうとする呪縛から解き放たれよう。少なくても自分のためになりゃ十分。
また多くの人に読まれなくてもいいじゃんか。みんなに影響を与えなくてもいい。この広い世の中で、たまたま読んだたった1人が良い影響を受ける。それで十分意義がある。「良い記事を書こう」とするんじゃなくて、「誰かにとって良い記事になればいい」くらいの気持ちでいいんじゃない?
アクセス数とかコメントとかトラックバックとかはてブという結果で満足感を得るのではなく、日々書く繰り返しの中で満足感を得るようにしてみてはと思う次第。結果より過程ですよ。何の変哲もない日常に神は宿りますよ。

日記のネタがない。
そう嘆く前に思ったことを書いてみる。昨日よりも少しよくなるようにと思いながら、書き続けてみる。そうやって少しずつ腕を磨いて初めて最高のネタを最高の出来に仕上げることが出来るとは思いませんか?

http://d.hatena.ne.jp/tek_koc/20080313/1205368101

そう信じて自分も書き続けている次第。実際少しずつはマシになってる気はするし。結構初期はひどいもんなあ。デザインはデフォルトで放置だったし、編集方法はよくわかってないし、はてな記法もできてないし、何より文章自体もひどい。こういう過去と現在の自分の違いを知るのもブログ・日記の醍醐味。やり続けるだけで丸儲け。