(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

頑張らない宣言

「頑張る」って嫌いです。オレは頑張りませんし、頑張れませんし、頑張ろうと思いません。

  • ダメなものはダメ
  • できないことはできない
  • 不可能なら不可能

これがタケルンバのモットーです。逆に言えばこうです。

  • いけるものはいける
  • できるものはできる
  • 可能なら可能

こう考えておりますので、「頑張る」という言葉がどうも好きになれない。嫌い。

精神論じゃ乗り越えられない

そもそも精神論的なニオイが嫌い。「頑張る」って言葉に実質が伴ってない。

  • 頑張るとは何か?
  • 頑張るとは何をさすのか?
  • 頑張るとは具体的に何をすれば良いのか?

こういう疑問の答えがまったくない。どうすればいいんだろう。何をすればいいんだろう。求める対象も具体的な行動も不明確。でも頑張ると。その精神性は美しいと思うけど、中身がない気がしまして。で、君は何をするんだい? 何をすると頑張ったことになるんだい?

自分を追い込むだけ

何をすると頑張ったことになるんだい?

この答えは実は明確。結果を出すこと。良い結果が出れば、それは頑張ったからだ。何をしたのかはともかく、頑張った。おめでとう。
逆に悪い結果が出れば、それは頑張っていないからだ。頑張れば良い結果になるはずなのに、悪い結果になった。自分が悪いのだ。自分が頑張らないから、結果もまた悪いのだ。
論理的に書くとこういうことだよね。

  • 頑張る=結果○
  • 結果×=頑張らない

……本当? これでいいの? 疑問を感じない? オレはこういう考え方は嫌い。事実に反する。
頑張ったからって結果が良くなるとどうして言える? それが言えないのに、結果が悪いからって頑張っていないと何故言える?

「頑張る」って言葉に実質が伴ってない。

そう、「頑張る」に実質はない。具体的な行動とかはよくわからない。けれども、結果との関連だけは突っ込まれる。結果の理由付けにされる。つまり「頑張る」ってのは都合が良い言葉なんですよ。実態はないけど理由になるから。
それによって自分が追い込まれないかな。良い結果を出すための、余計なプレッシャーにならないかな。悪い結果が出たからって、「自分は頑張ってない」と追い込む必要なんてまったくない。頑張りの問題じゃないんだよ。実態がないもので自分を追い込んで、どうするんだい?

ケガするぞ

良い結果を追求することで、自分を追い込む。精神的に良くない。そして肉体的にも良くないんですよ。
要するに「頑張る」ってのは「無理をする」でもあるんです。「できないことをする」あるいは「しようとする」こと。具体的な方法は何もないけど、とにかくなんとかしようと。乗り越えようと。そういうこと。
ところが人間の能力って悲しいくらいシビアだ。できないものはできない。実はそれが現実で、できないことをやると、どこかに負担がかかる。その結果、ケガをすることがある。
例えば20キロのものを持ち上げられる人がいる。20キロが限界量。体の骨格とか、筋肉量とか、ものを持ち上げる体の動かし方とか、そういうことが複合的にあいまって、その人が持ち上げられる限界量は決まる。
この場合、20キロをわずか100グラムでもオーバーしても、持ち上げられない。限界量とはそういうもの。たった100グラムでも、できないものはできない。
これを「100グラムくらい大丈夫だろ」と。「できるだろ」と。で、おなじみの「頑張れ」で解決しようとする。その場合、その100グラム分体に負荷がかかる。肩が脱臼するかもしれない。腕の筋肉が肉離れするかもしれない。腰を痛めるかもしれない。輪ゴムはある一点までは伸ばしても問題ないけども、ある一点を超えた瞬間、ブチッと切れる。そういうことが体に起きるかもしれない。限界とはそういうもの。
「頑張る」というのはそういう限界を越えようとすることなんですよ。無理な結果を得ようとする行為。その結果、精神的に肉体的にしんどい思いをする。心と体にケガを負う。そこまでして本当に頑張れる?

本質を考える

もし「頑張る」のなら。頑張りたいのなら、その言葉の本質を明確にした方がいい。「頑張る」なんて何だかわからん実態のない言葉を使うんじゃなくて、具体的なものや行動にあてはめるべき。
先ほどの20キロが限界量って話で言えば、「どうすれば限界量を上げられるのか」という話に落とし込む。「どうすれば100グラム余分に持てるのか」と。そういう考え方をして対策を打ってみる。
例えば筋肉量が足りないとする。じゃ、筋トレをしようと。肩がはずれやすい。じゃ、可動域を広げるためにストレッチしましょうと。持ち上げる方法にコツがある気がする。じゃ、いい方法がないか色々調べて見ましょうと。こういう形で具体的に取り組む。そしてそういう方法でしか乗り越えられない。物理的に不可能なものは、物理的に可能な方法をとることで可能にするしかない。
これは運動だけじゃない。勉強も一緒。歴史がわからない。これを解決するのは「頑張る」じゃない。歴史の何がわからないかを明確にして、それをわかるようにする方法を探し、実践すること。数学でも英語でも何でも一緒だ。分数がわからないのは頑張っていないからじゃなくて、分数を理解していないからなんだ。であれば「分数とは何ぞや」からはじめればいい。小学生の知識からやり直せばいい。「頑張る」だなんて曖昧な言葉の責任にしているからダメなんじゃないかな。

「やる」か「やらない」か

最後はこれ。「やる」か「やらない」か。「頑張る」か「頑張らないか」なんかは問題じゃない。あくまで具体的な行動をやったかどうかの問題。
20キロを超える重量を持てないのは、それが自分の能力だから。それ以上のものを持ち上げるためには、そういう自分になるための具体的なアプローチが必要。であるならば、それをやるかどうかなんですよ。非常にシンプルな答え。それ以上でも以下でもない。
頑張らなくていいよ。できないんだから。それをできるようになる方法は頑張ることじゃない。そのための具体的方法を「やる」だけなんだ。やらなきゃいつまでもできないままだし、やればいつかできるようになる。
頑張って何とかなると思わない方がいいよ。能力以上のことはできないんだから。今の能力以上のことをするためには、能力そのものを上げるしかない。だとしたら、それに取り組むほかないじゃないか。それだけのことじゃないか。
まあ気休めの効果があるとは思いますけどね。「頑張れ」に勇気付ける効果があるのは認めます。それはある。ただ気休め以上にはならない。実態がないし、ややもすれば無責任。

「何だかわからんが、とにかく結果出せ」

これに近いような気がしまして。オレはあんまり人に「頑張れ」って言いたくないなあ。オレが人に言うのはこれ。

  • 普通にやれよ
  • できることをやれよ
  • 自己ベストが出るといいね

頑張らなくていい。今できることをしてください。できることをして、できる限りの結果を出す。それが自己ベストなら最高じゃないですか。無理に頑張らないで、普通にやっていきましょうよ。自分で自分を追い込むことはないじゃないですか。頑張らない生き方。楽でいいですよ。