何かの良さを言うときに、何かをクサすのって無粋だと思うわけですよ。
「××はダメだから○○がいい」
みたいな。悪口を言うことでしか、メリットを主張できない。反論できない。言いたいことを言えない。でもですよ。シンプルにこれでいいんです。
「○○がいい」
何かがいいと言うときに、何かをクサす必要はないんです。「良い」「好き」とだけ言えばいい。「悪い」「嫌い」をもってくる必要はないんですよ。
敵をつくるな
あることを言うときに、無理に敵をつくる必要はないんです。対立構図をつくることはない。「○○がいい」とだけ言えば、敵もできないし、反発もないのに、その前提に「××はダメ」と付け加えるから話がややこしくなる。××ファンを敵にまわすことになる。
好きの反対は無関心
「○○が好き」という主張の逆は、「○○が嫌い」とは限らんのです。「好きでも嫌いでもない」であることが多いのです。何とも思ってねえというケースが多い。
単純な対立構図があったり、仮想敵がいたほうがわかりやすいんだけどね。好きの反対は単なる無関心。敵じゃない。反対勢力じゃない。ほっとけば共存できる人たち。そういう人たちにケンカを売ってもしょうがない。元々ぶつかっているのならともかく、敵でもない人を敵にまわす意味がない。
人間関係はディベートじゃない
とはいえ、方法論としてはアリの部分もあるんですよ。特に説得したい相手方がいる場合ね。
あるモノの良さを主張するときには、あるモノ自体のメリットを言うことも大事だけども、それの比較対象のデメリットを言うことで、よりメリットが強調されることもある。80点の商品Aを売り込む場合、それが100点ですよと見せかけることも大事だけども、同じく80点のライバル商品Bが、実は60点ですよとクサすのも有効なんだよね。メリットだけ言えば20点差だけど、メリット・デメリット同時に言えば40点差になるから。
ただ、これはディベート的なテクニックの範疇で、一般生活にはあまりそぐわない。何故なら、これは説得をする相手がいることを前提にしたもの。説得とは関係ない場面では意味がない。説得することによる利益が発生しないし、逆にそれをすることで敵ができる。不利益をこうむる。議論の方法としてはアリだけど、それを一般生活に持ってくる意義はない。
個人の好みは相対主義で決まってない
それに「良い」とか「好き」という価値観は、そもそも相対的に決まるもんじゃないよね。大抵、そんなに理由がなく好きになったりするもの。何かとの比較の結果好きになるわけじゃないよね。サッカー好きはただサッカーが好きなだけで、野球とかラグビーとか陸上との比較の結果、サッカーを好きになったわけじゃないでしょ。好きとかに理由なんてないよね。
個人の好みはそれぞれに絶対
また、個人の好みはそれぞれ正しい。人それぞれのもの。人それぞれつくられたもの。誰がダメで、誰が間違っているなんてことはない。人それぞれの絶対基準。
なので、それを相対的にクサすことに意味はない。「ほっとけや」で終了。お疲れ様でした。
自信がないのかな?
自分の好みは絶対で、自分の中では正しいのだから、堂々と「オレはこれが好き」と言えばいいのに、そこに対象物を必要とするのは、どこか自分に自信がないような。比較しなくても正しいのに。比較以前の問題なのに。論理も理由付けもいらないんだよね。誰かを説得する必要もない。
「オレはこう思う」
これだけでいいのになあ。