タイトルを見た瞬間、ハッとした。
自分で考える前にググっていませんか?
Life is beautiful: 自分で考える前にググっていませんか?
これは深い。とても深い。自分は自分で答えるクセを出してるつもりだし、自分としての答えを出すための道具としてGoogleを使っているつもり。でも、油断するとGoogleの答えを自分の答えにしがち。ラクなんだよな。そうした方が。
確信犯的に「徹底的に手を抜きたいからコピペしているだけ」ならまだ許せる。
Life is beautiful: 自分で考える前にググっていませんか?
手抜きしたいときはある。コピペで済ましたい気持ちもわかる。でも、こわいのは自分がなくなることなんだよな。Googleで得られた結果は他人がつくったもの。自分で考えた結果じゃない。でも、その結果を取り込むことで、自分の考えとして扱う。やがては自分の思考と扱ってしまうのが怖いんだよな。
自分の考えだと錯覚する
これが怖い。結論だけが刷り込まれる。単にググった結果だから、その結論に至る過程が身にも力にもなってない。何故そういう考えに至ったのかがわからない。再現性がない。論理性もない。あるのはそういう結論が得られたということだけ。
いわばヘリコプターで山頂にポンと下ろされた状態。頂上だ。やったー。それだけ。そこに行けただけ。一度山頂に行ったからって、もう一度行けと言われても行けない。苦労したわけじゃないから。自力で行ったわけじゃないから。しかし本人は自分の力で行った気になっている。Googleというヘリコプターで行ったのに、自分の力で行ったと勘違いする。この勘違い、錯覚が怖いんだよな。ダンコーガイ流に言えば「知の高速道路」ってヤツでいきなり目的地に着いちゃったと。
もちろんヘリコプターで行ったことを理解しているうちはいい。高速道路を使ったとわかってりゃいい。それが中島氏の言う「確信犯的に」だと思う。わかってやってるならよし。ただ、わかってないと後で大変。実力もないのに無謀な登山に出て大ケガする。あるいはヘリコプターを登山の手段と考えて大恥をかく。そういうことが起こる。
わしゃたまたまディベーターなので、物事は自分で考えるもの。あらゆるマスコミ、あらゆるインターネットツール、あらゆる情報は自分の考えの正しさを証明したり、補強したり、あるいは考えるきっかけにするためのものだと割り切っている。でも、油断すると勘違いする。人の考えを消化しないで受け入れて、しばらくして完全に理解していないことに気がつくことがある。矛盾に気付くことがある。
難しい問題に直面したときに、自分で考える前にまずググって答えを探してしまっていませんか?ネットで見つけた解決方法をろくに考えずもせずに採用してしまっていませんか?
Life is beautiful: 自分で考える前にググっていませんか?
深い。深いなあ。便利だからこそ、便利さに支配されかねない。使うのは人。便利にするのは人。ググるのは手段であって、目的じゃないんだよね。これは心に刻み付けておこう。大丈夫だと思っていても、流されがちなことではあるから。