(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

ブログ主は料理人

味覚は人それぞれ。だからこそ、料理人の個性が出るんじゃないかなあ。ブログなんかでも。

絶賛する料理もあれば、文句を言いたくなる料理もある。こってりした料理が好きな人もいれば、あっさりした料理が好きな人も。変わった料理やゲテモノ料理が好きな人もいるかもしれないw

ブログは料理。サイレントマジョリティと海原雄山。 - もっこもこっ

文章でもそうですよね。それぞれ好みはある。好きな方向性、題材、文体、表現方法。こってり、あっさりの違いのような。あるいは、同じ中華料理でも北京・広東・四川・上海の違い。煮物が好き、焼物が好き、蒸し物が好き。肉が好き、野菜が好き、魚が好き。料理と同様に、好みがある。人それぞれ。
だからこそ、料理の世界では「誰が作るか」が大事になってくるし、ブログとかの文章の世界では「誰が書くか」が大事になる。その「誰が」の部分が代用の聞かない個性だと思うんだな。題材とか文体とか、そういう細かい部分ではなくて。この世にひとつの作品の創造者になれるか。そこだと思うんだ。
弊ブログなんかだとテーマ性がないし、毎回思いついたこと、書きたいことを書いているので、統一感もへったくれもないわけだけど、しかしそれでも「タケルンバのブログ」「タケルンバが書いたもの」って個性がある。書いている内容はバラバラでも、書き手は一緒。シェフが一緒。調理した人が一緒。出てくる料理は毎回違っても、そこだけは変わらない。不動。
つまり「タケルンバ卿日記」というのは、タケルンバという料理人がやっているお店なわけですよ。個人商店。そして何でも屋。何を出すかわからん、日替わり定食が売りの店。注文はメッタに受け付けない。気が向けば注文も聞くけど、気が向かなきゃダメ。客は出されたものを食べるのみ。
あとはそれをお客さんがどう判断するか。それはもう料理人の範疇に入る話じゃない。書き手を離れた話。うまいと思うか、まずいと思うか。「もう二度と来ねーよ」と思うか、「また来るね!」と思うか。タケルンバという料理人の人格すべてを否定するか、あるいは肯定するか。すべてお客さんの判断。食べる人の判断。ブログなら読む人の判断。すべてお任せ。個人的にはそう割り切ってます。
どうせオレはオレ以外の書くような文章は書けない。オレができるのは、オレの文章を書くことだけ。それが良いことか悪いことかは知らない。自分で決められる話じゃないし、人が決めるべきもの。せっかく個人商店を構えているのに、人マネしてもうまくいくわけないし。ある人のマネをしたらうまくいくこともあるかもしれない。でも、マネはマネ。オリジナルを越えられない。逆にオレのマネしても、誰もオレを越えられるわけない。オリジナルはオレである以上、オレの最新作を出せるのは常にオレだけ。他は二番煎じなのです。だから、評価はどうあれ、それでいいんじゃないですかね。

料理人として美味しい記事を作ったつもりでも、読み手にとって好みでなかったり口に合わない場合もあるでしょうね。うーん、それはそれで仕方がないかな。

ブログは料理。サイレントマジョリティと海原雄山。 - もっこもこっ

これでいいと思いますよ。人がおいしいと思うものを作るんじゃなくて、自分がおいしいと思うものを作ればいい。人の感覚はそれぞれ。千差万別。それよりも、自分の基準、自分の感覚を大事にしたいですな。この世にひとつだし、この世で唯一自分が手にしているものだから。
ま、世の中には海原雄山的な人もいるわけですが、自分と会う海原雄山的な人とだけ付き合えばいいわけで。見えている世界が狭いと、どうしても目に見える合わない海原雄山の批判が痛いわけだけど、世界が広がれば広がるほど、自分と合う海原雄山の存在を信じれるようになりますよ。ある程度は確率の問題ですからね。
ブログってのは個人商店だし、お客さんにとっては出入り自由のオープンな場所。ほっとけば、自分と合う人ばかり来るようになりますよ。合わない人は来なくなります。そういう割り切りも時に重要なのではないでしょうかねえ。まる。