(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

イメージ力と実現力

最近、「写真を撮るのがうまくなったね」と言われることが増えてきた。料理の写真ばっかり撮っているわけだけども、「うまそう」と言われることが増えてきた。いやはや、大変ありがたいこと。自分としては「まだまだ」と思っているし、知識もなければ技術もない。道具にもお金をかけておらず、ないない尽くしの中で、ただ闇雲に撮っているだけ。しかしそれでも人に評価されるということは、なかなかにうれしいことなわけで。率直によろこんでいる次第。
まあしかしあれだね。元がひどかったというのはあるね。全然カメラの機能がわからんから、とりあえずオート。何でもかんでもオート。使っている道具に対しての理解がないから、とにもかくにも初期設定のまま、シャッターを押すだけ。フラッシュお任せ。設定もお任せ。全てお任せ。
今はさすがにちょっと機能の理解が進んだので、同じような構図で撮っても、もうちょいはうまく撮れる。まだまだだけども、最初よりはマシ。そのマシな分が「うまくなったね」になったのだろうと。ま、撮り続けていれば多少なりともわかってくるものはあるわけで。ヘタはヘタなりに成長するものなんよ。それを評価してくれる声は率直にありがたいですよね。

うまそうな構図

ただ、人並みはずれた食いしん坊だから、「うまそうに見える構図」をある程度わかっていたのは有利だよな。自分が「うまそう」と感じる構図、食欲を刺激される構図、「食いてえ」と思う構図に関しての理解は十分すぎるほどあったわけで。常日頃から「うまそうシチュエーション」はストックしてあった。あとはそれを形にするだけ。写真の形にするだけ。
足りないのはそれを実現する技術。形にする技術。写真にする技術。目的、ゴール、最終形は決まっている。現在地と目的地をつなぐ道。ゴールまでの手順。最終形にするまでの過程。そこが足りない。足りなすぎた。
最近はその面の理解が進んだ分、実現力が高まったんだと思う。「うまそうに見える構図」を写真として実現する力がついてきたんだと思う。不十分ながらも、実現性、再現性が高まった分、俺の「うまそう」を写真として変換することができる割合が増えた。その分、「うまそう」と思ってもらえるケースが増えた。こういうことなんじゃないかな。

イメージと実現力の関係性

ま、でもこういう話ってあちこちにあると思うんだ。イメージと実現力の関係性。うまそうに見える構図と、それを写真におさめる技術。絵とか習字の脳内イメージと、それを筆を通して再現する技術。プログラムなんかでも最終的につくりたいものと、それを実現するためのコーディングがそういう関係だろうし。脳と手の関係といいますかね。脳内イメージを再現できる技術が伴う分が、見た目の成長となり、完成形の再現率が上がる。質が向上する。技術がイメージに追いつく。
一方、この逆パターンもあるんだろうな。できることはある。技術はあるんだけど、脳内に再現するものがない。イメージがないというパターン。やれる腕はあるが、やりたいことがないケース。この場合はイメージができるのに伴って質が向上する。もともと再現できる技術はあるわけだから、再現したいものをイメージできるようになれば、それはそのまま形としてあらわれる。実現できる。
「ものをつくる」ということに必要な人の能力って、大別するとこの2つなんだろうな。理想に対するイメージ力と、理想に対する実現力。どっちか一方ではダメで、高度なイメージであっても実現できなければ目に見える形にならない。つまり他人にとってはそれは無いも同然になる。また高度な実現力があっても、実現したいものがなければ形にならない。想像できないものはつくりようがないからね。どれだけ技術はあっても、イメージの範囲内でしか実現できない。
つまりはイメージ力と実現力のうち、どちらか低い方の範囲内でしか、人は実力を発揮できない。低い方の能力が、その人の限界値になる。いくら一方が高くても、それを形にできない・形にするものがないのであれば、それを発揮する術がない。高い分の能力がスポイルされてしまう。

自分に無いときは

これを解決するには、低い方の能力を高めるか、人のイメージ力・実現力を借りるしかないのだなあと思ったり。言語化できないイメージがあるならば、それができる人の力を借りる。鼻歌しかできなくても、音楽の専門家ならばそれを譜面にできる。ラフなデザインしか描けなくても、専門の職人ならばそれを製品化できる。
イメージ力と実現力を身につける。それがなければ欠けている一方の専門家を味方につける。自分に両方がないなら、それぞれの専門化を結びつける。人付き合いという財産、コミュニケーションの能力で補う。
昔の写真と最近の写真を見比べて、つらつらとこう思ったのでありました。まだまだうまくなりたいのう。