なんか見入ってしまった。いっそ泣ければスッキリしたんだけども、あまりにも多くの思念が集まってしまって、泣けなかった。
映画「レスラー」を見てきました。公開前から気になっていた作品。そして評判に違わない内容。
「プロレス好き」という視点で見れば、嫌になるほどよくアメリカのプロレス事情を描いている。日本のプロレスとはひと味違う、アメリカならではの事情。あらゆる設定にモデルがあることは、見る人が見ればそれとなくわかる。
しかし、この映画はあえて「プロレス」という世界を離れ、あるレスラーを巡る女性の物語として見る方法もあると思う。主人公ランディの娘ステファニーと、ランディが行きつけにしている店のストリッパーであるキャシディ。ふたりの心の動きを追うという方法。
そして実際のところ、そちらの方が感情移入しやすいのではないかと思う。ランディという人物は、同じ男であっても感情移入しにくいのだ。あまりにも日本ではイメージできない生活すぎて。「アメリカのプロレス」という特殊事情を知っていても無理がある。知らなきゃ尚更難しい。老いや孤独、先行きの不安、男の死に場所といったテーマは普遍性があって、そのあたりの共感は得られるだろうけども、それ以外の部分に関しては、想像するだに無理がある。
一方、ステファニーとキャシディに関しては、似たシチュエーションが想起できるので、女性は感情移入しやすいと思う。自分がステファニーだったら、キャシディだったら。そういうことを考えやすいし、自分の身近な経験や、聞いた話から連想が可能。割と身近にある、等身大の女性に描かれている。キャシディの抱える悩み、戸惑いが他人事に見えない人もきっといるに違いない。
そういう意味で、描かれている世界は「プロレス」という非常に男くさいものであるけれど、決して男向きの映画というわけじゃなく、女性が見ても感じ入るところが多い作品になっていると思う。予備知識なしにスッとこの映画を見れるのは、むしろ女性の方かもなあと。流血試合のシーンとかあるので、ちょっと心臓にはよくないかもしれないけども、それさえ我慢できればきっと心に残る一本となるはずだ。
最後に、個人的に思うところがあったシーン。ランディがスーパーの通路を抜けて、惣菜売り場に出るところ。自分のテーマ曲が流れる。控え室を出る。通路を潜り抜ける。気合を高める。そして照明まぶしい表舞台に登場する。歓声に包まれる。プロレスではこうだ。
しかしスーパーではこうはならない。リングに向かう通路の感じはまるでそっくりなのだけれど、表に出たところで誰も注目しない。
引退をしたプロレスラーは多い。しかし、何故かことごとく復帰してしまう。大仁田厚しかり、アニマル浜口しかり、テリー・ファンクしかり。女子プロレスでもクラッシュ・ギャルズなど、復帰した例は事欠かない。*1
体が限界だから引退したのに。もうできないから引退したのに。それでもリングに復帰する。日常では物足りない。光が当たる場所にいたい。自分を呼ぶ声がある場所、それが自分の居場所。ここに現役というものが持つ麻薬性を感じる。やめられないのだ、きっと。やめたら、きっと物足りない。足りないものを探すと、前にいた場所に戻る。だから、彼らは復帰してしまうのだ、きっと。やめたあと、自分のいるべき場所、居場所に気づく。リングに帰ろう。