(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

素朴な疑問

良書であることはわかった。

でも、「いいものがあるよ」ってことを言うのに、何かをおとしめる必要あんのかね。わからない。
これだけの人気になる記事を書けて、名も筆力もあるのにね。もったいないなあと感じるのはオレだけかしらん。
素朴な疑問です。

ポッチャリとデブを分かつもの

ふむう。これはポッチャリ共和国を代表してコメンツせざるを得ませんな。「ぽっちゃりとデブの境界線」という話。

ここまではぽっちゃり、これ以上はデブ、という個人的見解がございましたら教えてください

ぽっちゃりとデブの境界線 - ぽっちゃりは非常に便利な言葉ですがデブ... - Yahoo!知恵袋

ま、基本的には個人の好み以外のナニモノでもないよね。
但し、これではあまりに救いがない。

美人だとぽっちゃり
不美人だとデブ
そう言われると
確かに、そんな気がしてきました・・・

ぽっちゃりとデブの境界線 - ぽっちゃりは非常に便利な言葉ですがデブ... - Yahoo!知恵袋

オレは美人な子、キレイな子よりも、カワイイ子が好みなので、美人かどうかを基準にされるとツライな。「美しさ」は基準にならん気もするし。「カワイイポッチャリ」と美人は一致しないような気もするし。むしろ不美人だからカワイイケースもある気がするし。アンバランスが原因のコミカルさとか、カワイさってあるでしょ。

「かわいい」って欠点だと思うんだよね。抜けてる部分、ダメな部分こそが「かわいい」のではないかと。完璧なものは美しいんだけど、かわいくねえんですよ。でもってタケルンバは「かわいい」好きなので、欠点がねえとダメと。そういうわけなんです。

欠点=かわいい - (旧姓)タケルンバ卿日記

こういう好みの持ち主なものでね。
で、「美人」も「カワイイ」も女性のルックスに関する評価で、似たような気がするけど、「カワイイ」の方がより主観的で、よりハードルが低い気がするんだよね。で、オレはより主観的で、個人的な基準で判断したいんだな。「ポッチャリ好き」という超個人的な性癖な持ち主なわけで、「美しさ」というより客観的で、完璧性が求められそうなものより、「カワイさ」という「カワイイと思えたモノ勝ち」の基準が好きなんですよ。

カワイイと思えるのがポッチャリ、思えないとデブ

なのでこういう線引きがあるかな。単純な目方の問題とか、ルックスの問題じゃなくて、仕草や性格、トークの内容、趣味。そういう全般的な要素で決まる。どんなに太っていても、カワイイと思えてしまったらオレの負け。だったカワイイんだもん。ポッチャリ認定。

体重に負けてないのがポッチャリ、負けてるのがデブ

あとこういうのもあるかな。前向きであったり、ネタにしたり、気にしてないなら大体ポッチャリ。目方はあるけど、スゲエ身軽とか。動けるとか。体重を道具として使えるかどうかは大事な要素だな。道具として使えきれないくらいの体重を抱えてしまっては、さすがのオレもデブ認定せざるを得ないだろうし。「太りすぎて動けません」とか。さすがにデブだ、それは。

見た目基準では、単純に好みの問題です

それ以外の要素だと、あとは本当に個人の好みだと思うのね。

デブ→女を捨てている・・・・・

ぽっちゃりとデブの境界線 - ぽっちゃりは非常に便利な言葉ですがデブ... - Yahoo!知恵袋

こういう回答もあったけど、女を捨てた結果、カワイければそれはそれで良し。いろんなものを一周して、またカワイイに戻ってくることもあるんだよなあ。女性を捨てて女性らしくなることもあって。これは自分でもよくわからない感情なんだけど。「地球は丸かった」ということでしょうか。天動説万歳ということでしょうか。多分間違ってるね。

森三中の境界線

ま、あと芸能人とかは個人的に知る由もないので、外見判断するしかないんだけど。ベストアンサーではこうなってた。

柳原可奈子→ぽっちゃり
森久美子→デブ
友近→ぽっちゃり
森三中→デブ

ぽっちゃりとデブの境界線 - ぽっちゃりは非常に便利な言葉ですがデブ... - Yahoo!知恵袋

オレが判別するとこうなりますね。

ポッチャリ共和国民が集まって討議すると、大抵「森三中の3人をどう区分するか」で揉めるわけですが、オレの場合、黒沢のみセーフ。ま、3人まとめてセーフのヤツもいるし、村上のみセーフみたいに分かれるケースもあるし、3人まとめてアウトのヤツもおります。個人的主観の問題なので、人それぞれなのでありますよ。当たり前のことだけど。ポッチャリ好きでもこれだけ揉めるわけなんで、普通の人たちはもっと大変でしょうね。

「デブ」って言い方が嫌い

そもそも「デブ」って言葉もイヤですけどね。嫌い。言われるならともかく、言いたくない。特に女性には言いたくないですね。

容量は同じですが、


好意的な表現=ぽっちゃり
侮蔑的な表現=デブ


その人に対する感情が言葉を変えます。

ぽっちゃりとデブの境界線 - ぽっちゃりは非常に便利な言葉ですがデブ... - Yahoo!知恵袋

こういう面は少なからずあるような。
なわけで、オレが呼ぶとしたら「象さん」ですね。象さん。……同じか。意味ないか。

オレの体重の範囲内は全てポッチャリ

ま、あとはオレの体重基準かな。オレの1ヶ月前の体重が82kg。172cmで82kg。割り算すると1cmあたり477g。これ、目安。この範囲内はポッチャリ認定したいな。デブ認定したくない。「どのツラさげて!」って話になるもんな。自分が体重あるのに。
各々これに身長をかけるとよろし。その体重まではポッチャリ範囲。160cmの子なら、76kgまでは許す。許しきる。150cmなら71kgくらいだ。この基準をゆるいと見るか、厳しいと見るかは人それぞれだけど、そのまさに人それぞれがポッチャリのいいところ。絶対基準じゃないのです。

  • 「カワイイと 思ったあなたが ポッチャリだ」
  • 「自分より 太めがいいな 冬支度」
  • 「ポッチャリを あつめてはやし 食べ放題」

ポッチャリ川柳で締めます。では。

神保町のカレー屋ってなんでジャガイモがつくんだろう

id:mousou_denkaがやたらボンディのカレーを推している。

直接会ったときもボンディボンディ愉快なボンディ♪

カレーの話をする事が最近多くなっているんだけど(こんなブログやってるからだけど;)
「おすすめは?」
と聞かれたら、絶対にボンディと言う事にしている。

ボンディ神保町本店(東京・神保町エリア) - 妄想殿下的「西洋料理至難」

よし、ならば行ってくれようと、id:MameMameid:kyompiの3人で、神保町の本店に行ってみた。

神保町のあたりって、何故かカレーのうまい店が多いよね。

そして何故かジャガイモが別で来る。エチオピアなんかもそうなんだけど。何でだろうね。うまいからいいんだけど。

ポークカレー。辛さは辛口。ルーもライスも大盛り! お肉ゴロゴロ。ライスの上にはチーズ。
食べてみると、洋風のマイルドな味。カレーというよりシチューだな。コクがある。やや甘めかも。個人的には甘いカレーは好みでないので、辛口にして正解。辛さがあった方が味がキリッとする。芯が入る。辛さがないと甘味で焦点がぼけるんじゃないか? ま、好みの問題だけど、わしゃ辛口がいいと思った。丁度いいと思った。

お肉もしっかりおいしい。ポークカレーの王道って感じだよね。スパイシーなインドカリーとはまた違う。あくまで洋風のカレー。
ただ、ちょっと胃にもたれる感じ。脂分が多いのかな? ズシッと来る。軽くない。
でも「カレー食ったぞ!」という気になる。うまい。確かにカレーに詳しいid:mousou_denkaがオススメするだけの逸品。さすがだ。
カレーを食べ終え、新宿に移動。ベルクでしばし談笑し、カレー&ベルクオフを終える。楽しきかな、楽しきかな。

深夜の呟き

ド深夜にサッカーを横目で見つつ、ぼんやりとTwitterで呟いていたわけですが、リプライいただいた発言を含めると、結構いい感じの流れになったので、まとめてみる。

ちょっとうまいくらいなら嫉妬するが、うますぎるとただただポカーンだな。嫉妬の対象にならん。ただただうっとりするのみ。

http://twitter.com/takerunba/status/1013187298

てなことを考えると、嫉妬するときは自分でも代われる・できる・可能であると思っているのかな。自分ができることが人にされてるから悔しいのかな。だとしたら、自分の可能性を示唆する感情なのかもしれないね。

http://twitter.com/takerunba/status/1013189430

実現不可能なことは想像できないという。想像できるということは、どこかで可能なことを示しているという。だとすると、よりそれを具体化する感情とは嫉妬。ま、だからといって本当にできるかどうかは別問題だけど。

http://twitter.com/takerunba/status/1013193384

@takerunba この世界に、想像を絶すること、なんてない。というやつでしょうか。

http://twitter.com/Dominion525/status/1013206405

@Dominion525 想像できないことは起こらないでしょうね。手塚治虫の世界観ですら、もうほとんど実現してるし。

http://twitter.com/takerunba/status/1013212172

@takerunba 「がっかりする」っていう事象にも当てはめることができるよね。

http://twitter.com/crystaline/status/1013201139

@crystaline うん。期待の裏側の感情だからね。可能を前提にしているから、できなかったときに負の感情が生まれる。できないと最初から思っていれば、ガッカリしないもんな。自分への期待の現われ。予定値よりも結果がマイナスだからこそ、マイナス感情が発生する。

http://twitter.com/takerunba/status/1013206112

不幸感に悩む人は期待値が高いのかもしれない。相手に対するものと、自分に対するものと。相手に対する期待値が高ければガミガミ言う人になり、もしかすると外向的に見えやすいかもしれない。逆に自分に対する期待値が高いと内向的になりやすい。期待はずれの恐怖心に負けるケースが出てくる。

http://twitter.com/takerunba/status/1013211143

他人に期待なんかしたらダメだって自分は思ってる。期待なんかするからがっかりして、期待なんかするから傷つく。だから自分は他人に期待はしないことにしてる。

http://twitter.com/yoppa0516/status/1013214644

@yoppa0516 ただ、そこで自分に期待しすぎてもつらいんだよね。人に求めない。それはいいんだけど、自分にも求めすぎないようにしないと、どっちみち自分がきつい。

http://twitter.com/takerunba/status/1013217649

人に期待しないのなら、自分にも期待しないことです。できないことはできない。できるようになりたかったら、できるようになるためのプロセスを踏むしかない。実にリアルな現実だと思うのです。

http://twitter.com/takerunba/status/1013219050

自分に期待しすぎるヤツはマジメすぎるんだよなあ。自分がまだできると思ってる。限界の先に余地があると思ってる。ないのに。それ以上できないのに。限界に達した以上はそれ以外の方法を見つけるしかないのに。

http://twitter.com/takerunba/status/1013223548

@takerunba 鬱になる人も、自分のポテンシャル、というか能力値の限界を見誤っていることが多い気が。そもそもできなくても仕方ないことなのに、できないということに気を病む、みたいな。

http://twitter.com/Dominion525/status/1013226505

@Dominion525 できていることに気は行かず、できないことに気が行くのですね。よく例えるのは両手で砂をすくうシーン。両手で砂をすくう。指の隙間から砂がこぼれ落ちる。マジメな人はそのこぼれ落ちるわずかな砂粒に気を病むのですな。両手一杯の砂をすくい集めているというのに。

http://twitter.com/takerunba/status/1013231804

人ってなかなか難しい動物ですね。