(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

「雨ニモアテズ」に誰がした

宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」のパロディーで「雨ニモアテズ」というのがあるらしい。

 コンナ現代ッ子ニ ダレガシタ

親だよ、親。「ダレガシタ」も何もねえよ。上の世代が悪ければ、下の世代も悪くなる。それだけの話じゃないですかねえ。人ごとにしちゃいかん。
大体こういった下の世代に対する評論ってロクなものがない。大体において自分たちが善であり、他が悪であるという前提の話ばかりなんでねえ。議論する意味もない。
「○○ができなくなった」という話も意味がないと思ってるんですよ。何故なら、その背景には「○○ができるようになった」があるから。実際に現代の子どもの方が体力は落ちているし、運動能力は減退傾向にあるんだけれども、その数値だけをもって「現代の子どもはダメだ」とは言えない。子どもの方が優れている部分もありますからね。例えばオッサンらは、携帯電話とかパソコンを使いこなせるのかって話。両手でメールの早打ちができる子どもと、人差し指でピポパと押すのが関の山のオッサン。能力的にどっちが上かっていったら子どもなわけで。あるひとつの能力だけで比べるのはまったくもって意味がない。
結局のところ、能力の合計値としては昔も今も変わりねえというのが真実じゃないかと。昔は便利な機械がなかったから、何かと体力で解決していたため、能力促進が体力よりになっていたが、現代はそこまで体力を必要としないため、パソコンの操作などの器用さに能力が振り向けられている。こう考えるのが自然じゃないかと。
で、漢字の読み書き能力とか、算数の計算力が落ちているのもこういう現象だと思うんですよね。今はパソコンとかで変換してくれるから、正確に「憂鬱」とか「薔薇」とかの漢字を覚える必要がないし、計算は計算機とかExcelがやってくれる。漢字の知識や計算力よりも、漢字の変換や計算をパソコンで行う能力の方が重要だから、前者の能力が退化している。単純に言ってこういう現象なのですよ。
なので、こういう能力の変化が見られるということは、人間が環境に対して適切な変化をしているということで、環境順応能力の賜物。現代をクサす必要などまったくもってなし。むしろこういう変化を阻害しちゃいかんよ。こういう変化を理解できるようにせんとね。
今の子どもと昔の子ども。そう変わりゃしませんよ。人ごとにする親が一番おかしくなったことに気付かないとなあ。