(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

誰もが思いつく話こそ王道

考えすぎの病理ってあるんですよね。考えて考えて深みにハマり、結局何も得られない。考えすぎたことで、得るものがないところにハマりこむ。混雑はしているものの、おいしい果実がなっている場所を見過ごし、空いている奥地にたどりつく。人はいない。しかし果実もそこにない。他に人がいないから独占はできるけども、独占する対象物がない。
ディベート初心者がよく陥りやすい罠があるんです。

誰も使わない論理で攻める

「人の裏をかこう」という発想。良く言えば「独自性」「オリジナリティ」であり、「奇襲」でもある。普遍的・一般的テーマであればあるほど、そして少しかじった初心者であればあるほど、「人の裏をかく」ということに対する意識が何故か強くなる。わかりきった論題であればこそ、これまでにないことをしたくなり、経験が少しあれば尚更、他の経験者に差をつけたくなる。「人に差をつける」をこうした戦略面で実現したくなる。
しかしながら、現実はそううまくいかない。

その論理は何故誰も使わないのか?

誰も使わない論理がある。あなたにとってその論理はとても強い論理に思えたとする。有効な戦略に思えたとする。「人の裏をかこう」という意図を実現させるのに効果的で、うまくいきそうなものであったとする。
しかしその論理が強く思えれば思えるほど、有効に思えれば思えるほど、その戦略は危うい。実はそれは落とし穴。本当に強い、有効な論理であれば、何故今まで誰も使わなかったのか? その戦略がこれまで使われてこなかった理由は何なのか? 普遍的で一般的な論題であればあるほど、「今まで何故使われなかったのか?」の落とし穴は大きく深い。

「使われなかった」のは「使えなかったから」

単純な話で、実はその論理、戦略は強くも有効でもなかったんです。平たく言えば「イマイチ」だったわけですよ。ダメだったんです。強くないから使われない。有効でないから使われない。もっと強く、もっと有効なものがあるから、みんなそちらを使う。他の選択肢があるから選ばれない。それだけの話なんですよ。
「人の裏をかく」という意図は確かに達成される。しかしそれは「表ではない」からなんですよね。王道ではない。裏道。だから文字通り「裏をかく」ことになる。しかしそれが実効性を伴うかというと、そこに問題がある。

サッと思いつかない論点は王道ではない

シンプルに思いつく、想像できる、類推できる話が本線なんです。大体の場合。そしてそこから派生する問題を、如何に解決するかが求められていることが多いわけです。
じっくり考え込んで、脳みそから汗を出して、やっと捻り出した俺だけの答えみたいなものに果実はあまりないんです。考え込まないと出てこない問題より、もっと大きい問題があるはずなんです。一目見てわかる問題が横たわっているときに、目をつぶって他の問題を考える意味はあまりないんです。問題が大きい順から片付ければいいし、大きい問題だからこそ、解決できたときの果実は大きいわけなんですよ。
しかし目の前の問題を避けたい心理がある。大きい問題があるのに、それを見たくないときがある。ディベートでも現実の生活、仕事の場面でそういうことがある。「人の裏をかきたい」と思う理由がある。

反論されたくない

反論されたくないのです。面倒なのです。心理的負担になるんです。
相手に攻撃を受けることなく、自分だけが攻撃をしたいのです。ノーダメージでありたいのです。被害を受けたくないのです。
そういう心理が「人の裏をかきたい」に向かわせる。相手の備えがないところを攻めるという欲求になる。正面攻撃を避け、側面や後方からの攻撃という選択肢をとらせてしまう。孫子の説く戦略の常道ではあるんだけどもね。
しかしながら、反論されないということは、「反論してもしなくても、さしたる問題はない」というところだったり。単なる「重箱の隅」なわけですね。他の論理から考えれば、とるにたらない話。話が本質とかけ離れていればいるほど、反論がない。反論の必要がないから、反論もない。反論がないから、自分は傷つかないが、同時に得るものもない。労は少ないけども、功も少ない。

反論される話こそ本質

逆にとらえると、こうとも言える。何故反論されるのかと言うと、その話が本質的であり、重要なポイントだから。だからこそ議論がある。論争が生まれる。対立が生じる。ぶつかるのはぶつかる必要があるから。即ち、反論があるということそれ自体が、その論点の重要性を示している。
なので、反論を恐れて裏を突こうとすると、本質とかけ離れた話になることが多い。考えて、考えて、考え抜いた結果、誰もが想像してないと思われた有効な論理を思いつく。しかしそれは有効ではないからこそ、誰もが想像していない「裏」であり、本質とかけ離れた議論だから誰も検討しない。

100点の話を50%伝えても50点だが、50点の話を80%伝えても40点にしかならない

どれだけのメリットやデメリットがあるかを人に伝えようとするときに、なるたけその値が大きい話がいいわけです。金額が一番わかりやすいわけですが、100億儲かる話と10億儲かる話がある。こういう話なら誰しも100億の方を選ぶ。
しかし額が大きい話ってのは証明するのは難しく、小さい話は証明しやすい。反論があるかないかの問題ですね。「いやいや、そうはならないよ」というのがある。とはいえ、元々の額が多ければ、多少削られても問題ないわけですね。そもそもの器が大きいわけだから。
しかし小さい話ってのは、どんだけ頑張っても、元々の器以上の話にはならんのです。たかが知れてるわけですな。限度がある。
ならば、できるだけ大きい話をして、その歩留まりを如何に良くするかに思いを馳せたほうがいい。

反論を恐れず王道を

スッと、パッと思いつく話がいいんです。反論されることが予想される話がいいんです。メリットにしてもデメリットにしても、すぐ思いつく2つ、3つがメインなんです。振り絞るように出てきたメリット・デメリットは大したものじゃないんです。おまけみたいなものなんです。
議論するときに大事なことは、相手を裏をかくことではないんです。相手が予想する王道の論理を展開することなんです。そして王道とは「誰もがすぐに思いつくこと」なんです。誰もが思いつく、発想できる、イメージの枠内にある。そういう話、論理だから説得力があるし、同意を得やすい。

「何を言うか」ではなく「どう言うか」

あることを言うときに、大まかな部分というのは誰が言っても変わらない。重要なポイントなんて変わるはずがないんです。また、変えたらダメなんです。一番良いものがあるのに、二番手、三番手のものを使ってもしょうがない。
検討すべきはその方法論。誰もが思いつく方法がある。それを実現するにはどうするか。納得してもらうにはどうするか。誰もが思いつく話であるからこそ、人に差をつけるにはこうした工夫。思い付きを形に変える方法論。

30分の思い付きを30時間煮詰める

後輩に言うときはこう言ってます。論点を抽出するには30分で十分。この論点を我々は「柱」と呼んでいるんですが、30分で思いつかない柱は大したことない。大きなメリット・デメリットではないから、そこで争っても得るものは少ない。
大事なことはその思い付きの実現性と、効果を如何に証明するか。そこに時間をかけるか。時間の優先度はここだと。「柱をどうするか」じゃなくて、「柱を証明するにはどうするか」だと。
誰もが思いつくから、それをやめる、使わない、他にするのではなくて、誰もが思いつくからこそ、その柱で押す。綿密な準備、シミュレーション、現場での対応力でカバーする。王道を避けず、如何に押し通せるかに頭を使うかがディベートでは有効だと思いますし、強い人ほど、論点がどこかで争わない気がしますね。奇をてらわない。
まあそれに「人の裏をかく」とか奇襲ってのは、そもそも弱者の戦法だし、相手を混乱させるという意図を実現させるためのもので、それ以上の効果はないのが現実ですけどね。相手が混乱せず、がっぷり四つに組まれるともろい。奇襲戦法なんでそんなもんです。相手が混乱しなきゃ意味がない戦法だし、本当の強者には役立たない。再現性が低い、一回限りの戦法でもありますしね。スキル育成にも役立たない。
王道を避けては何も得られない。反論や批判を恐れずに、如何にそれに対抗していくかを磨くことが大事なんじゃないかと思いますね。
以上、最近マニアックな論理展開をして「だから何なの?」と思う機会が増えてきたので書いてみた。