M-1関係のエントリーで「島田紳助が」とか「松っちゃんが」みたいな記事をよく見かけるわけですよ。
- 島田紳助の得点が高い=面白い
みたいな。
- 島田紳助の得点が低い=面白くない
というか。
こういう話も「オレの見方正しい=オマエの見方正しくない」というのと同様、萎えるのであります。というのは、論理的に最も重要なこの前提が欠けているから。
- 島田紳助の得点評価は、面白さと得点が一致している
この前提が正しいのならば、まだ言えんこともないけども、この前提はまったくもって証明されてないわけですよ。言わずもがなで、人それぞれ面白さの基準や感性は異なるわけで、島田紳助の評価が絶対に正しいとは言えない。これは他の審査員でもそうだし、誰であってもそう。個人の感情に正しい・正しくないはないし、上下の別はない。「その人がそういう感情を持った」という事実のみがリアルで、その感情がどうであるかは非リアル。誰かの勝手な想像の産物に過ぎませんよ。島田紳助の評価は島田紳助の中でだけ正しく、それ以外の人間には及ばないわけでありますな。だって他人だし。脳みそは別腹だし。腹じゃねえよ。
ところが、こういう権威にすがる傾向はどうにもこうにもあるわけです。で、そういう権威を作ることで、その権威と同じ感情を持った自分も正しいとしたいわけですな。あることを正しいと定義することで、それと同じ自分を正しいとしたい。そんな姑息な意図が見えてならないのであります。
で、こういう権威って無粋だと思うわけですな。つまらん。それこそ「そんなの関係ねえ」で、見て面白ければ面白いだし、面白くなければ面白くねえのですよ。他の人はどうでもいい。大事なのは自分がどう思うかで、他人、ましてや権威があるとされている人の評価なんてどうでもいい。
まして問題なのは異なる価値観の排除であります。自由主義者のタケルンバとしては、これが最も問題。ザブングルは確かに低い点数だったけども、だからといってこれを「面白くねえ」と決め付けられると非常に困るわけであります。日本の片隅にはこうして「くやしいです」であるとか「触るなや→喪服やぞ」を楽しんでいる人間がいるのであります。また、敗者復活で見切れている髭男爵のひぐち君を見て喜んでいる人間もおるのであります。
- 髭男爵は面白くねえ
という一方で、
- 髭男爵サイコー
という風変わりな人間もおるのであります。こういう多様性が新たなお笑いを作り出している側面もあるわけで、人の感性をクサしたり、価値観を決め付け、排除したり、権威付けしたがる風潮が奇異に見えて仕方ありませぬ。もっと自分の感性に自信持っていいんじゃありませんかね。人に頼るほどのもんじゃねえですよ。