(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

議論のマナー

ディベートの現役選手&ジャッジ&コーチなんかもしとるので、タケルンバはちょっと議論にうるさい。昨日の腐った羊水生まれですが、何か?でも書いたように、議論にゃマナーがある。それは議論を議論として成立させるために必要だし、より良い議論にするために必要なもの。良い議論にするためのコツというかね。そんなのなくても議論はできるんだろうけど、あると良くなるし、能率が上がる。そういうもの。

科学的進歩を目指す

字面は難しいけども、要は「議論の結果、何かを得よう」ってことね。何でもいいから、何かを得ようと。議論をすることで何かを得ようとして、議論の結果何かを得る。そうなれば、議論する前よりは進歩する。あることが正しいという結論を得たなら、それは世の中の真実をひとつ知ったということ。また、あることが正しくないという結果でも、これはこれで世の中の真実。「合ってるか合ってないかわからん」というものに白黒つくわけで。それも立派な進歩。得られるものは何でもいい。何かを得ようとすることが重要。こういう姿勢があるかどうかで大違い。

感情を排除する

そのためには感情はいらない。感情は正しいも正しくもないので、感情で議論しても何も得られない。「私はこう思う」「オレはこう思う」はいくつあっても一方通行。何故なら、ある人の感情的な意見は、そいつの感情フィルターを通しているので、そいつの中では正しいが、そいつ以外には正しいも正しくもないんだよね。人それぞれ全く別の感情フィルターがあるので。「オマエはね」という一言にて終了。感情的な主張には一般性がない。一般性がないから、複数の人間で集まって議論する意義もないのですよ。「1人でやってれば」ってな話でございます。

主張は論証で

さらに具体的に言えば、主張は論証でするべき。「論証」即ち「論理」と「証拠」。論理という話の筋道と、証拠という話が正しいという証明。それに基づいた主張をすることで、情緒的な話が排除される。話の因果関係が明確になる。
これはどちらか片方じゃダメ。話の筋道が合っていても、本当にそれが正しいのかわからない。「本当に?」という疑問ひとつで話が進まなくなる。また、いくら証拠があっても、話の筋道がわからなければ「たまたまそうだった」というだけかもしれない。理由は後付けできるもんだしねえ。偶然ってことも結構あるし。
さらに言えば、いくら論理と証拠があっても、主張がなければ意味がない。

  • (論理)温暖化ガスの排出量が増えると地球温暖化になる
  • (証拠)温暖化ガスの排出量増にともなって地球表層面の気温は上がっている

……で? それで何がしたいのよと。どうしたいん! それで地球をどうすんのと。そういう話になるのですな。つまり主張・論理・証拠は三位一体。どれかを欠かしてはならんのです。

主張以外の話を持ち込まない

議論でよくあるのは、その議論で言ってないことを持ち込まれること。過去の発言とかね。よそで言ってたこととか。しかし過去はどうでもいい。今この議論が大事なのでねえ。
あと意訳もダメ。人の主張は額面どおりに受け取ること。主張してないことは議論に持ち込まない。「そんなこと言ってねえよ」的なやりとりは無駄なんでねえ。意味のない論理の飛躍。表に出てきた主張だけを対象すべきですな。

「何故?」を大事に

ある主張があったときに必要なのが「何故?」という問いかけ。この問いには全てが込められている。「何故そういう主張をしているのか」「そのきっかけは何なのか」「その主張の論理構造はどうなっているのか」「証明はあるのか」などなど。こうした問いかけをすることで、その主張の背景は明確になる。「主張は論証で」の論証部分がハッキリする。一方主張する側も、こうした「何故?」に答えることで、自分の主張の背景を確認する機会になる。問いに答えることで、自分を理解する契機になる。議論を深めるために必須の言葉。

わからないままで終わらせない

「何故?」の重要性に関連することなんだけど、わからないことをわからないままにするのはダメ。議論の中に空白のピースをつくってはいけない。全部埋めた状態で議論すべき。なので、わからないならば「何故?」を繰り返すべき。それがよっぽど基礎的な知識であるならともかく、ある議論参加者がわからないことは、他の参加者にとってもわからない点であることが多いし、重要なポイントであったりする。また不明確な前提から導かれた結論は、不明確なものになる。そうなると議論の意義も減ってしまう。そういう意味で疑問は解消した方がいいし、議論がクリアになる。疑問が解消したというだけで議論した意義もできるし。

徹底的に議論する

中途半端はダメ。徹底的に。わからないままで終わらせないのもそう。わかったかどうか微妙なら、わかるまで確認する。曖昧なままじゃ終わらせない。「何となく」は最も悪い。確信を得られる答えを求めたい。その結果、誰かを徹底的に論破するのもやむなし。議論にはつきもの。論破されたヤツには気の毒だが、徹底的に論破されれば、その主張が如何におかしいのかが明確になる。その人身御供になったということで。無駄死にではないし。

間違いを認めよう

議論の結果、自分の主張が間違っていることがわかったとする。その場合、アッサリ認めましょう。その方が身のため。そこで自分の主張に固執して突っ張るとおかしなことになる。間違っていることがわかっただけ良しじゃないですか。間違っていることがわかれば、間違いを活かした次の主張ができる。その過程で議論も一歩前進する。逆に間違いを認めないと、いつまでたってもそのまま。前進のための間違いだってあってもいい。素直なほうが進歩も早い。
間違った主張をしたとしても、自分の全てが間違ってたわけじゃないんですよ。主張が間違っていただけ。それ以上でもそれ以下でもなし。別に人格は関係ないし。間違っていることを認められないヤツの方が、人格的にヤバイと思いますですよ。

人格攻撃は御法度

主張はいくら攻めてもいい。間違った主張に対し、間違っていると主張するのは議論として正しい。但し人格は別。如何なる理由があっても、人格は攻めてはいけない。間違っているのは主張であって、その主張をした人間自体じゃない。ここは分けて考えるべき。議論の対象は主張であり論証。氏育ち、家庭環境、民族、人種といった一切は関係なし。

名前・肩書き関係なし

有名人の発言とか、肩書きの立派な人間の言うことが正しいとは限らんのです。議論に名前・肩書きは無用の長物。どんな無名の人間でも、その主張が論理的で実証的であるならば、その主張は正しいのです。逆に肩書きが立派でも、論理も証拠もないのなら、その主張は聞くに値しないわけです。議論の全ては主張にあり、論証にあるわけですな。

議論後はノーサイド

主張について否定されると、日本では人格を含んだ全てを否定されたように受け取る向きが多いような気がしますが、そういうもんじゃねえんです。人格は別。あくまでやり取りの対象は主張であり論証なんですよ。
なので、議論が終わったら、議論での熱いやり取りは置いといて仲良くしましょうよ。自分をガンガンに攻めてきたヤツも、自分が嫌いで攻めてきたわけじゃない。「私への主張は実に論理的でしたね」くらいポジティブに認める余裕が欲しい。議論での行動と、リアル生活の好き嫌いは全く関係なし。
理想はその後飲みにでも行って、観想戦ができるといい。議論での立場を忘れ、第三者的に議論を冷静に振り返るような環境であれば最高。そういう環境であれば議論の質はまだまだ良くなる。リアル生活に議論を引きずるようじゃ破綻が近い。議論とリアルは分けて欲しいんだけどなあ。論破されたからって恨まれちゃたまらないんですけど。
以上、昔社会人ディベートでボコボコにした相手に、試合後「殺す」と言われたタケルンバがお送りしました。