何をインプットするかで、アウトプットされる何かが決まる
インプットとアウトプットの関係は「アルキメデスの原理」みたいなものだと思ってるんだよな。
- ネット巡回がインプットにならずただの消費になっていた
- インプットとアウトプットの両方が充実すると更に面白くなるネット - 北の大地から送る物欲日記
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水で満たしたコップの中に、適当に何かを突っ込むと、突っ込んだものと同量の何かがあふれるというか。何かをインプットすると、何かがアウトプットされる。それだけのこと。
ただ、その際には法則がありまして。
種類保存の法則
基本的にはインプットされた同種のものが出てくる。知識を入れれば知識が出てくるし、感情を入れれば感情が出てくる。あるいは意図とか目的に沿ったもの。入れたものとチグハグなものは、早々出てこない。基本的には似かよる。
毎日200〜300くらい記事読んで、ぶくまつけて、スターつけて、TwitterやらTumblurにポストして。
ネット巡回がインプットにならずただの消費になっていた
自分は情報を大量にインプットしてるつもりだった。なんとなく勉強して偉くなったつもりになってた。
でも、そうやってため込んだ知識は他の人と話すときに何の役にも立たなかった。
つまり、これはインプットじゃあなかったわけだ。だってアウトプット口がないんだから。
このケースもこの法則で説明がつくと思うんだ。
毎日200〜300くらい記事読んで
こういうインプットをして、
ぶくまつけて、スターつけて、TwitterやらTumblurにポストして
こういうアウトプットになった。でだ、「ぶくま」とか「スター」とか、「TwitterやらTumblur」への投稿って感情的なものだと思うわけね。同意とか納得とか感心とか。「確かに」「なるほど」「へー」なんですよ。感情のアウトプット。
ということは、同意とか納得とか感心しようと思って見てたんじゃないかなあ。感情のインプットだったんじゃないかなあ。「へーへー」「ほーほー」で。「ただ楽しいからやってる」って本文中にもあるし。
なので、ちょっと意識を変えるだけで見え方も変わったりする。同じものを読んでも違う。知識を得ようとして読むと、読んでいる文章のポイント、比重が変わる。「ふーん」って感じはやや見方が後傾な気がするけど、「どれどれ」みたいな感じになると、だいぶ前傾っぽいでしょ。娯楽として本を読むのと、「読書感想文を書く」ってことを前提に本を読むのとでは違うでしょ。そういう意識の差ってあると思うんだ。そしてそういうものがインプットの質に影響し、アウトプットの質に影響するんだと思う。個人的には「何でも突っ込んどけよ」「そのうち役立つよ」とは思っているんだけども、即効性を求めるんなら、意識付けをきっちりするしかないなあ。
ただ、意識付けは大事だとは言っても、これには気をつけて。