(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

世間の死は強さの死

他人の価値観という土俵にのっているから、強さとか世間が必要になるんじゃないかなあ。

私は「あえて世間」に合わせていたのであり、何も知らずに「世間」に染まってる人とは違うという一種のむなしいプライドを持っていたのかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/iammg/20080326/1206543085

世間って実態ないですよ。ものすごくあやふやなもの。日によって変わるし、自分が属する環境によっても変わる。医者だらけの環境で育てば医者になるのが常識。会社員が多い社会では、会社に勤めるのが当たり前。周りはみんな高校に進学している。故に世間では高校進学が普通と。まあそういう話ですよ。
じゃその世間とやらをつくっているのは誰か。自分なんです。自分が定義しているんですよ。世間を。自分が「これが普通だ」と思うもの。それが世間。誰かがつくったものじゃないんですよ。自分が勝手につくるものなんです。世間って既にあるもので、他人が形作ったもののような感覚になっていますが、実は他人の価値観を自分が勝手に汲み取り、勝手に定義したものが世間。だから、時や環境によって世間は違うんですよ。自分の受け取り方も変わるから。
なので、はじめから世間を定義しないこともできる。世間などない。ただ自分がいる。世間という空間を意識しない。こういう考え方もアリだと思うんだよね。他者を意識しない。ただ自分の存在だけを肯定する。世間の存在を前提にするからプライドが必要になる。世間なんてない、他者は関係ないと思えば何の力も必要なくなるよ。

私は大前研一氏のファンにもなりました。それは大前研一氏も、自信にみなぎっており、既得権益層をぶっ潰してやろう!という破壊者であり、強い個人だったからです。

http://d.hatena.ne.jp/iammg/20080326/1206543085

大前研一氏だって他人を意識してないから強いんだと思うよ。他人は関係ない。ただ自分がある。自分の考えは正しい。以上! これだけの発想じゃないかなあ。彼にとって他人がどうであるとか、他人の意見と同じ・違うとか、世間はどうであるかは関係ない。ただ「自分はこう考える」。これで完結しているわけですよ。世間とか他人との関係性を考えて生きていると、大前氏の姿勢は強く見えるけど、はじめっから世間・他人を意識しなければ、強くも弱くもない。自分の価値観がある。それ以上でも以下でもないんですよ。超越してるだけ。
世間の死は強い個人の誕生ではない。強さの死なんです。強さが死んで、単なる自分が残る。強い弱いを言っているうちは、世間を意識している証拠。世間を意識しているうちは、他者に縛られている証拠なのかなあと思う次第であります。我思う、故に我あり。