(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

ブログを更新するとは、弾丸を放つということ

文章ってのはさ、自分の手元を離れたら、どこに行くかわからない弾丸なんだよなあ。

書き手は反撃までコントロールできない。特にブログなんていう読み手を特定しない無差別攻撃可能な場においては。
いや、弾丸の種類はいろいろあるよ。ドカーンと炸裂するバズーカ砲だったり、全てを焼きつくすナパーム弾であったり。「あれ、何か発射しました?」みたいな小口径の拳銃の弾だったり。まあいろいろ。でも撃ったことにはかわりないし、何かあったら撃たれる可能性が出てくる。
誰しも平和主義じゃないしさ。穏便に受け取ってくれるわけでもないしさ。撃った弾丸の破壊力に応じて反撃されやすさは上がるけど、破壊力がないからって、じゃ、反撃がゼロかというとそうでもない。
早い話が戦争でね。銃弾の出元には銃弾が打ち込まれるし、反撃される。それを防ぐにはサイレンサーをつけるとか(匿名)、遠くから撃ちこむとか(見られにくいところで書く)、そういうスナイパー的手法になる。
ところが銃弾飛び交う最前線大好きなファイター型にとっては、そういうスナイパー言論が卑怯に見えるようでね。何故か忌み嫌われる。見つかったスナイパーの末路は無残。
自分の手から離れたものは、当人の攻撃性の有無に関係なく、受け手の見方によって攻撃性が付与されてしまうことがあるし、元から攻撃的に放たれたものは、尚更その傾向を強める。それは「だったら書くな」ということではなくて、文章ってそれだけ強いものなんだよな。言霊だから。
あとは覚悟というか、割り切りだと俺は思う。反発される。仕方ない。自分が違和感を持つように、自分に違和感を持つ人がいる。それだけのこと。自分の違和感が、他人の視点によって可視化される。そういう割り切り。
むしろ打たれないほど怖いものってなくってさ。完璧でも何でもない自分が何をしても打たれないっていうのは、打つに値しないってことであるし、読まれていないってことでしょ。打たれるってのは、それなりに読むところがあるわけで、そこに援護射撃が出てくるようなら、なかなか良い線ついているんだと思う。結論定まらぬ話だから敵・味方入り乱れての戦争になるわけだから。
まわり全員敵だったらどうするって? その場合は致命的な事実誤認とかあるんだろうな。そのときは誤りを見つけ、正しい知識を身につけるしかないよね。それが身につけば、書く前より成長できたことになるわけで。ごめんなさい、いい勉強になりました。これでいいよね。
元々日本の場合、「ブログ=日記」というはじまりがあって、だからこそ「はてなダイアリー」というサービス名であり、「(旧姓)タケルンバ卿日記」というタイトルなわけですが、日記って本来は自分以外読まないものであって、他人が読むことを前提としない。ところがブログってのは逆で、他人が読むもの。
日記みたいな感覚で書いているけど、実は公開のものであり、日々、作文を発表している場なんだよという意識をちょっとだけ持ってみればいいんじゃないかなあと思う。きっと今まで意識しなすぎたんだろうから、「意識しろ」だと今度は萎縮するだろうしね。ちょっとだけの意識でいろいろ変わると思う。
自分が人のブログを読んだときに感じること。それが自分のブログを読んだときに他人が感じることだから。