(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

ブログ通信社・ブログ記者クラブ

ネット、ブログの可能性。

ブロガーのギルド、もしくはブロガーのユニットというものが生成されていくようになると色々出来る事が増えて行くのではないかと、漠然と考え始めました。

ブロガーユニット:Geekなぺーじ

集合化されることで、取材力とか交渉力などの付加価値がついて、個人より有利な面はあるでしょうなあ。信用力も増すだろうし。法人じゃないと取材お断りみたいなところって、まだありますからねえ。個人への対応はいたしませんと。そういうケースの際に、母体となる組織、会社があって、それにぶら下がる形でゆるく所属するスタイルがあると、何かと便利な気はしますね。
それにですよ。情報を求める場合において、個人じゃどうにもならんと。そこで組織をつくって何とかしようってのは、ごくごく自然な考え方のような気がしますな。情報を伝えたいと思う人が行き着くところって、如何にして一次情報にアクセスできるようになるか、という情報入手。情報の質や精度。写真などの画像による内容のわかりやすさ。如何にして入手した情報を早く伝えられるか、というインフラ整備。このあたりに尽きると思うわけでね。
でまあこういうことを昔の人も思ったから、通信社というものが生まれたし、記者クラブなんてのもできたわけですな。大昔は伝書鳩で伝えたわけですよ。いち早く情報を伝えるために。このスピードが相場での勝ち負けにかかわるから。あるいは情報を引き出すために、記者クラブをつくってアクセス権を手に入れる。今でこそ弊害が指摘されているし、閉鎖性が問題がなっているけども、それが生まれたときはより閉鎖的な政府などから、情報を引き出すために必要だった面もあるわけでね。個人よりも法人だし、いち法人よりはいくつかの法人で群れをつくってと。こういう声の大きさの追求って面もあったと思うので。

ブログ時代の通信社、記者クラブ

そう考えていくと、ブロガーのギルドでありユニットという発想は、昔の「ひとりじゃきついから、通信社つくろうぜ。その方が情報集められるし、大きいビジネスにもなるだろう」というのと一緒だし、「一社で行っても話してくれないから、みんなで共同して記者会見やってもらおうぜ」という記者クラブの発想と同じなのかなあと。ネットとしての、ブログとしての当然の帰結のひとつだと思うわけですよ。
と考えていくと、この発想は逆に古い気がする。

例えばインターネットの元ネタは新聞であることが多い。つまり新聞がつぶれて元ネタを書く人がいなくなったらインターネットのニュースも消えるのである。

藤田正美の時事日想・出版&新聞ビジネスの明日を考える:新聞、テレビ、ネット……メディアを分類することに意味はあるのか? - ITmedia ビジネスオンライン

確かに新聞が元ネタの話は多い。多いけど、それだけじゃない。新聞がなくなったら情報元が減るだけで、他から拾ってくるだけのこと。新聞だって自らが一次情報であるとは限らない。政府や企業からのリリース、通信社からの情報を発信しているケースも多い。
……それってネットとかブログと一緒じゃん!
であればだ。ネットがブログが主体となって情報を集めるようになれば、情報元としての新聞の意義は失われる。情報の産地から、直接情報をもらえば、新聞という問屋はいらんのですよ。一次情報があり、それを新聞が二次情報として伝え、ブログなんかで三次情報として取り扱われる。しかしブログ書きが新聞社が受け取るようなリリースを受け取るようになれば、二次情報レベルで情報を発信できる。即ち新聞社と同様の立場になる。
ユニット化して、取材へのアクセス権を手に入れようって話は、まさにこういう面での力の問題の話であり、可能性を広げる話だと思うんだよね。元ネタを自分自身で如何にして掴むか。新聞離れ、問屋離れ。情報産地への直接購買を巡る工夫。

新聞の方が一次情報は弱い

それにだ。もともとネットとかブログの方が一次情報に強いし、新聞の方が後手を踏むもんだ。携帯電話で写真を撮り、それをアップする。情報の伝達としては実はこれで十分だったりする。画像はすぐ公開できるし、動画もYouTubeニコニコ動画に上げられる。まして最近はストリーム中継で生放送もできる。音声だけのネットラジオも可能。
ある出来事が起きたときに、それに接した人間が伝える方法は山ほどあるし、費用もそんなにかからない。一次情報を伝える方法は現にあるし、それを利用できる人間も多い、何しろ新聞の場合、その新聞社に所属する人間の数が一次情報に触れる人員の最大数になるわけだけども、ネットでのそれは誰もが一次情報の発信主になりうる。母数が違う。決定的に違う。現に事件・事故でも写真・動画を一般から提供を受けて、紙面に掲載するってケースはあるわけでねえ。
ということを考えると、新聞がなくなろうがさして問題はないし、結局のところ代替物ができるはずだし、新聞以外の情報元ができるだけの気がしますな。そしてそれはネット的な通信社であり、記者クラブ的なものが主体になるような。既存の集団や組織が消え行く場合、それに代わる何かが集団化されていくものですよ。それがギルドでありユニットであるのかなと。ふたつの記事を読んでそんな印象を持った次第であります。

日本でも「オーマイニュース」というプロジェクトがあったが、うまく機能しなかったようだ。

藤田正美の時事日想・出版&新聞ビジネスの明日を考える:新聞、テレビ、ネット……メディアを分類することに意味はあるのか? - ITmedia ビジネスオンライン

やり方によっては機能すると思うんだけどね。「誰でも記事を投稿できる」から基準を一段階あげて、「そのギルドに所属している人間なら投稿できる」にするとか、論文誌形式で、その記事を公開するか否かの決定をする責任スタッフを置き、そこで記事の質を担保するとか。ま、工夫のしようはいろいろあるし、組み合わせることも可能かと。
どうしてもワタクシはポジティブに考えてしまうので、可能性の方に目が行ってしまうのでありました。