(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

不満の創造

あまりネットをしない生活を送ってみて思ったことは、情報が少なくなること。量が減るし、同時に質も下がる。新聞やテレビだけでは限界があるなあということを痛感した。ネットがない生活には戻れないとも。
もちろん昔はネットがなかったわけだったし、否応なくそういう生活を送っていた時期もあった。朝起きて新聞を読み、ご飯を食べながらテレビを見る。それで十分だった。「情報が少ない」という不満もなかったし。
しかしながら、ネットがある生活に慣れてしまった結果、ネットがないことによるデメリットが明確になってしまった。やっていることは同じ「新聞とテレビの生活」でも、ネット以後では「新聞とテレビの生活」に欠けているものがわかっている分、その差が不満を生み、物足りなさとなる。

受け身でしかいられない

新聞やテレビは、情報に対して受け身でしかいられない。情報の受け手が選択できるのは、その新聞を読むか否か、テレビを見るか否かの、情報を受け入れるかどうかのみ。
「こういう情報が知りたい」「こういうことを教えて欲しい」という情報に対する願望の実現可能性は低いし、それを待つしかできない。
これに対し、ネットは能動的に情報を取りにいくことができる。気になる言葉があれば検索すればいい。

「できる」の差

この「できる」が決定的なんだろうな。別に今だって、常に情報を取りにいくわけではないし、大抵は受け身で情報に接している。けれども、何かあったときに能動的になれる。ただ情報に接するのではなくて、情報を取りに行くことができる。この差が大きいんだろうな。好奇心の満足度的に。

不満の創造

「できる」状態から「できない」状態になったときに不満が生まれる。いざとなれば調べられる状態から、調べられない状態になれば、その「できない」という差に不満を感じる。しかし、はじめから「できない」状態であれば、不満すら感じない。
ネットがないときには何の不満もなく新聞やテレビの生活を送れていたのは、そこにネットがなかったためで、新聞やテレビの欠点である「情報を取りに行く」ことができなかったから。
そこにネットが登場して、情報を取りに行くことができるようになる。すると物足りなさが生じてしまう。新たな何かが生まれると、従来のものに足りない何かが可視化され、そこに不満が創造されてしまうのだなあ。
もちろんこれは「新聞やテレビはいらない」という話じゃない。「新聞とテレビ」より、「新聞とテレビとネット」の方がいいよね、という話だ。新聞がないと困る。テレビもあったほうがいい。そしてそこにネットがあれば尚更良いというだけ。
情報の接し方において「情報を受け取る」から「情報を取りに行く」に選択肢が広がった今、受け身メディアだけじゃもう満足できない体になってしまった。ましてブログなどで「情報を出す」という贅沢もできるわけだし。
知るということは、知らないことへの不満を生じさせてしまうのだなあ。