(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

「ゆりかごから墓場まで」の時代から「ゆりかごと墓場だけ」の時代へ

不思議と自分は醒めた感じで見てましたね。

無縁死。
ま、自分は先祖代々のあれそれみたいなしがらみがないし、「死んだ後のことはどうでもいい」という無頓着人間なもんで、だからこそ比較的冷静に見ていたわけなんですが、逆に日本特有の死に対する温かい価値観というものを感じましたね。この話が話題になるということは、それだけ「無縁死は好ましくない」という価値観が一般的であるということを示すわけなんで。
Twitterでも書き込んだわけなんですが、日本以外だと無縁死って問題にならんと思うわけですよ。誰だかわからん死体がそこにあるというだけで。ただそこに死があったと。そして単なる死体として処理する。そこに特別の思いとかはからいって、あまりないように感じるわけなんです。
また「先祖代々」とかのイエ的価値観もあまりない方々も世界では多いわけなんで、日本特有の「墓を守って」とか「手厚く弔おう」みたいな意思のあるやなしやの差も大きいわけですわね。親に対する配慮とか。逆に配慮を受ける側の親は、だからこそ子に迷惑をかけたくないと思ったり。「葬式くらいは自己資金で」とかって思ったりするわけでしょ。
それって日本が身内の死に対して、特別なはからいをしようという意思があるからの話なんですよね。「死者は手厚く弔うべき」という価値観が一般的であり、中でも血縁関係者は特別であると。死体であれど粗末に扱うことはできない。例えその死体が誰であるかわからなくても。そしてその誰がわからない状況こそが問題であると。
しかしながら、そういう死に対して手厚くという意思はあるものの、それが難しい現実があるわけですよね。例えば核家族化などの問題によって。世帯の細分化、個人化という問題によって。
無縁死を避けるには、縁がある人間が死の現場に関わる必要がある。一般的には夫婦であり家族なわけですな。そして従来はイエであったと。しかしながら、夫婦単位の世帯になってしまえば、先立たれた相手の葬式はあげてやれるけども、残った方はどうにもならんわけですよ。同居人がいないわけで。死を発見してくれる人がいなくなるわけで。
つまり無縁死ってのは社会問題でも何でもなくて、無縁死は避けるべきであり、死者はきちんと弔うべきという旧来の価値観と、世帯の個人化という現実の乖離によって引き起こされているわけなんですよ。無縁死は問題であるというのが一般的な価値観としてありながらも、無縁死が引き起こされやすい家族形態になっている。非婚化すれば尚更。結婚しても子どもがいないなら同じこと。また、子どもと別居しているなら、結論はやはり同じ。
となると解決方法としては、独居が無縁死を生むので、集団生活を強制するか、「無縁死でも仕方ない」と諦めるかなんですよね。「地域で対応」みたいな話は広義の「集団生活の強制」みたいなもので。夫婦・親戚・知人の単位で対応していたのを、住まいを中心とする地域ぐるみに変えるだけで、根本的な解決にはならない。同居しているわけじゃないから、どうしたって発見は遅れるし、そもそもそういう地域ぐるみのなんちゃらがイヤだという人も多いわけで。「無縁死を避ける」ために、生きているときの生活クオリティを下げていいのか、という話にもなりかねませんし。そういう価値観の強制はなかなか難しい。
となるとあと期待できるのって、結局は「国がガンバレ」とかになるのかな。よく日本では北欧型の福祉が話題になって、北欧が理想国家のように語られるけど、あれって一部事実誤認があるんですよ。北欧にああいう手厚い福祉制度があるのって、日本ほど家族に対する愛着がないからって理由があるんですよ。子が親の面倒を見ないというか。親は親、子は子。子といえど、親のことは知らんと。日本の価値観で見ると、向こうは異様に冷たい。
だからこそ国が老後の面倒を見るという制度が必要という側面があるわけで。「明日は我が身」という現実と、個人主義という側面が強いから、多少税金は高くても、将来的な安心を選ぶわけですよ。老後の安心を買うわけですよ。
そういう北欧型の選択を、日本人がするようになるかもしれない。無縁死がイヤなら最終的にはそれしかないわけだから。家族がいない。会社や地域に頼れない。となると最後は国。国しかいないだろうなあ。
しかし考えるに死にまつわるものって究極の大型公共事業ではありますな。誰しもが死ぬわけで、誰しもが受益者になる。あらゆる公共事業の中で最も公平性が高い。必ず1回はお世話になる。但し1回のみだけど。
かつて国の福祉を表した言葉に「ゆりかごから墓場まで」ってのがあったけども、これだと国の負担が凄すぎて、国の財政が持たない。生から死まで、いくらなんだって全部は面倒をみれない。となると「全員が1回」という意味で、生と死だけ面倒を見ればいいという福祉の考え方も成り立つのではないか。

「ゆりかごと墓場だけ」

最初と最後だけは国は面倒を見る。途中は全て自己責任。国は人生という旅路の改札で切符を切り、切符を回収する。駅のような役割になっていくのではないか。また逆の見方をすれば、生と死に関してのみ、国は人の人生に関わればいいんじゃないか。
そんなことを考えたのでした。